貫前神社(富岡市) |
| 全国の歴史的(遺跡・遺構・遺物・建造物)>貫前神社 |
貫前神社 |
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貫前神社:動画
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| 名 称 | ・貫前神社 |
| 読み方 | ・ぬきさきじんじゃ |
| 場 所 | ・群馬県富岡市一ノ宮 |
| 備 考 |
貫前神社:由来・歴史・概要
・貫前神社の開創年には諸説あり、当社の由緒によると安閑天皇元年三月、「神道集」によると安閑天皇二年三月に祭神となる抜鉾大明神が上野国と信濃国の国境付近に聳える笹岡山に降臨し、鉾を逆さに立てて鎮座したのが始まりで、白鳳6年(677)、又は白鳳7年(678)3月に菖蒲谷に遷座し社殿が造営された事が記されています。
当社の主祭神の経津主神は、創建当時当地域を治め、当社を奉斎した物部姓磯部氏の祖神と思われます。 一方、もう一柱の姫大神は、元々当地の地主神とも、養蚕機織の守護神とも云われています。 鎮座地周辺は、当時、綾女庄とも呼ばれていたそうで、一説には渡来人が当地で養蚕や機織りを行い、その守護神として姫大神を奉斎していたとも考えられてます。 又、和名抄の上野国甘楽郡には「抜鉾郷」と「貫前郷」が別々に記されている事から、往時は抜鉾大明神(経津主神)を奉斎する神社と、姫大神(貫前神)を奉斎する神社が別々存在していた説があります。 一方、六国史には「抜鉾神」と「貫前神」が記されているものの、延喜式神名帳に記載されている「貫前神社」には一坐として記され、延喜臨時祭式では「貫前神社一座或作抜鉾」と注意書きがある事から、「抜鉾神」と「貫前神」は同神との説もあります。 中世以降は抜鉾大明神を主祭神とする抜鉾神社と呼ばれるようになり、明治維新後に社号を貫前神社に改称し、姫大神が合祀したような形式になったようです。 貫前神社は格式が高く、「続日本後紀」によると承和6年(839)に従五位下。 「日本三代実録」によると承和元年(839)に従四位下勳八等、貞観9年(867)に従四位上勳八等、貞観18年(876)に正四位下、元慶3年(879)に正四位上勳八等、元慶4年(880)に従三位勲七等に列格した事が記されています。 さらに、「日本紀略」によると寛平3年(891)に正三位勲七等、「扶桑略記」によると延喜16年(916)に従二位、「上野国交替実録帳」によると長元3年(1030)に正一位勲十二等、「上野国神名帳」に正一位と記されています。 延喜式神名帳には名神大社として記載され、上野国一ノ宮に格付けられています。 平安時代後期には俵藤太こと藤原秀郷が当社を訪れ、平将門の乱平定の戦勝祈願を行い、杉の苗木を植樹したと伝えられ、本殿背後の大杉はその苗木が成長したものと云われ、藤太杉と呼ばれています。 康和2年(1100)、当地が旱魃になると、当時の上野国司である藤原敦基の命により、上野国目代平周真が当社で降雨の祈願を行っています。 鎌倉時代に入ると、物部姓磯部氏の後裔と思われる貫前神社の社家で鎌倉幕府の御家人だった一宮氏が庇護し、文明2年(1470)には礒部兼吉が神宝を寄進しています。 元寇の文永の役の際、鎌倉幕府と朝廷は当社を祈願一之宮の一社に選定し、文永11年(1274)には戦勝と敵國降伏の祈願が行われています。 新田義貞の奥方は当時の貫前神社の神官である天埜時宣の娘だった事から、当社を庇護したようで、義貞の遺品とされる朱塗立烏帽子形鎧兜を所有しています。 室町時代には当地の国人領主である小幡氏が庇護し、小幡尾張守重定の3男である氏友が一宮氏の養子に入り名跡を継いでいます。 戦国時代に小田原北条氏領になると小幡氏も従った事から、貫前神社も庇護を受け、天文23年(1554)には社殿の修理費として漆窪長尾六郎旧領の一部を寄進しています。 武田信玄が上野国を席捲すると小幡氏も武田方に転じた為、当社も庇護を受け、永禄6年(1563)に社殿を造営した際には信濃国伊那郡からの板20駄を寄進しています。 その後も信玄の庇護が続き社領の寄進や社殿の造替に尽力し、跡を継いだ武田勝頼も当社を庇護、太刀1腰を奉納し、武運長久を祈願しています。 天正10年(1582)に武田家が滅びると、当地は再び小田原北条氏領となり、当社を保護する禁制が発布され、天正12年(1584)には祭礼の御用代物500文が寄進されています。 天正18年(1590)に小田原北条氏が没落し、当地が徳川領になると、徳川家康が庇護し、天正19年(1591)には社領として一宮村内176石余を寄進しています。 江戸時代に入ると、幕府が庇護し家康から寄進された社領が朱印地として安堵され、寛永12年(1635)には3代将軍徳川家光によってに社殿が造営、5代将軍徳川綱吉が社殿の修築を行っています。 延宝9年(1681)には円空上人が当社を訪れ、大般若経の写経を行い、末尾から円空の当時の動向や寛文3年(1663)から仏門に入った事が窺えます。 古くから神仏習合していましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により僧堂や、観音堂、三重塔、鐘楼が破却される等、仏教色が一掃され、社号を貫前神社に改称しています。 明治4年(1871)に国幣中社に列格、昭和21年(1946)に社格制度の廃止により一之宮貫前神社に社号を改めています。 境内は下仁田街道から、一旦石段を上り、鳥居と総門を潜ると、下りの石段とその先に建てられた社殿群がある、所謂「下り宮」の典型として知られています。 社殿の内、2階建てで雷神小窓を有する貫前造と呼ばれる特殊型式の本殿をはじめ、壮麗な拝殿、楼門が貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。 又、特殊神事が多く、中でも鹿占習俗は国選択・群馬県県指定無形民俗文化財に指定されています。 貫前神社:動画
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