高山社跡:由来・歴史・概要
・高山社の前身である養蚕改良高山組は明治6年(1873)に高山長五郎が自宅で養蚕法の改良と組合員への指導を行ったのが始まりとされます。
高山長五郎は18歳で家督を継ぐと生業としていた養蚕の研究に打ち込み、安政2年(1855)から大規模な養蚕業に転身しました。
しかし、当時の養蚕に確立した手法が無かった事から、天候や蚕特有の病気によって生産量が安定しませんでした。
長五郎は養蚕の基礎から学び直すと同時に蚕の観察、ベテラン養蚕業者の経験等を組み合わせ、独自の手法を考え7年目でようやく安定するようになりました。
その後も研究は続けられ明治時代初期に人工的に温度と湿度を管理した「温暖育」と、自然にまかせた「清涼育」の長所を取り入れた「清温育」の基本が編みだされ、各地から長五郎の手法を学びたいとする養蚕業者が増え始めた事から明治6年(1873)に養蚕改良高山組が結成されています。
明治16年(1883)頃に「清温育」の手法が粗確立した事を受け、明治17年(1884)に組織名を「養蚕改良高山社」に改め、初代社長に就任しています。
明治19年(1886)に長五郎は死去しましたが、養蚕改良高山社は引き続き存続、明治20年(1887)に藤岡町に事務所と伝習所を移し、当地は高山分教場として引き続き養蚕業者や若者達に指導を続けています。
跡を継いだ門下の菊次郎は特に教育に力を入れ明治34年(1901)には私立甲種高山社蚕業学校を設立し、さらに全国各地に分教場を設けた事で高山社は「全国の養蚕の総本山」との異名がありました。
しかし、資本力が無かった事から国立や大企業の研究所が相次いで設立すると、重要性が失われ次第に衰微し昭和2年(1297)には廃校に追い込まれています。
長五郎の養蚕業への貢献度は高く、数々の表彰を受けています。
現在も主屋や長屋門等が残され、平成26年に藤岡市有形文化財に指定され、敷地全域が「我が国近代の養蚕業の発展を理解する上で貴重である」との理由から国指定史跡に指定されています。
さらに「富岡製糸場と絹産業遺産群」がユネスコの世界遺産に選定されると技術革新と普及の観点から田島弥平旧宅と共に構成遺産に認定されています。
高山社:動画
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