龍得寺(横瀬泰繁の菩提寺)

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龍得寺
龍得寺の画像
龍得寺の画像
龍得寺の画像
名 称 ・龍得寺
読み方 ・りゅうとくじじ
場 所 ・群馬県太田市新田上江田町
備 考
龍得寺:由来・歴史・概要
・江田山薬師院龍得寺は天文元年(1532)に金山城の城主横瀬泰繁が開創したと伝わる曹洞宗の寺院です。

横瀬泰繁は横瀬家6代当主横瀬景繁の長男として生れました。横瀬氏は主家である岩松家の有力家臣で、泰繁はその筆頭家老として家中を掌握しょうと画策した為、岩松昌純は不審に思い排斥しようとしました。

しかし、それを察した泰繁は下克上により昌純を殺害、傀儡として幼少だった昌純の子供の氏純を当主に取立て岩松家の居城だった金山城を接収、これにより事実上領内を支配権を得ています。

さらに泰繁は氏純を自刃に追い込んだ為、名実共に領主となり姓を「由良」に改め当地域の国人領主としての地位も確立、天文年間には古河公方足利晴氏から信濃守を与えられ対外的にも領主として認められています。

天文14年(1545)9月に発生した下野壬生合戦で討死しています。

遺骸は龍得寺の境内に葬られたと見られ、境内の水輪に「龍得寺殿」、地輪に「天文十四巳九月九日 前信州大守威岳宗虎大居士 由良信_守源泰繁」の銘がある五輪塔は泰繁の墓碑と考えられています。

一方、五輪塔の形状と、みどり市笠懸町天神山から産出された凝灰岩が利用されている事等から、この五輪塔自体は鎌倉時代末期から南北朝時代に制作されたものと考えられ、泰繁の死没年とは大きな乖離があります。

この事から、銘は関係者が既存の五輪塔を泰繁の墓として後の世に刻んだ可能性を指摘され、龍得寺の境内の近くに江田氏の江田館の跡地がある事から、江田氏所縁の館跡だったとも江田氏所縁の前身寺院があったとも考えられます。

龍得寺五輪塔は貴重な事から昭和49年(1974)に太田市指定重要文化財[建造物(石造文化財)]に指定されています。

又、寺宝として所有している絹本著色横瀬泰繁画像は16世紀前半頃、龍得寺を開創した記念に開基者(横瀬泰繁)を讃える為に描かれたとも考えられる画像で、縦103.8cm、横34.2cm、貴重な事から昭和63年(1988)に太田市指定重要文化財[絵画]に指定されています。

山門(鐘楼門)は入母屋、桟瓦葺き、三間一戸、八脚楼門、桁行3間、梁間2間、上層部の外壁は柱のみの吹き放しの鐘撞堂、高欄付。

本堂は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、正面中央には1間の切妻向拝付。本堂背後にある土盛は龍得寺古墳と呼ばれる円墳、ただし未調査の為、詳細は不詳。

龍得寺:動画
金山城:動画
江田館(江田氏館):動画

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