冠稲荷神社(太田市細谷町)

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冠稲荷神社
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冠稲荷神社
冠稲荷神社:動画
名 称 ・冠稲荷神社
読み方 ・カンムリイナリジンジャ
場 所 ・群馬県太田市細谷町
備 考
冠稲荷神社:由来・歴史・概要
・冠稲荷神社が何時頃開創されたのかは判りませんが、境内の南方にある富沢古墳群の被葬者と何らかな関係があったとも云われ、古墳時代から祭祀が行われていたとも云われています。

富沢古墳群は4世紀後半から6世紀後半にかけて築造されたもので、円墳や方墳、帆立貝形古墳が合計32基の古墳が確認されています。

当地は古くから水上交通の要衝で、稲作の栽培に適した低地が広がっていた事から、それらを掌握した首長、又は首長クラスの一族、関係者が被葬者だったと推定されています。

平安時代に成立したと思われる上野国神名帳に記載されている新田郡鎮座の神社の中で正五位上、宿穴伏明神、又は宿窪明神は当社との説があります。

これは鎮座地の地名「細谷」は、以前、蛇川と聖川に挟まれ窪地のような地形から「宿窪」と呼ばれていた旨が「地誌」に記載された事を根拠としています。

一方、当社に伝わる由緒によると天治2年(1125)に源義国が館を築いた際、境内地が丑寅の方角に当たる為、館の鬼門鎮護の為に開創したのが始まりと伝えられています。

源義国は河内源氏の棟梁である源義家の三男として生れ、摂関家領上野国八幡荘を相続し、長子の義重と共に上野国新田荘の開発に尽力した人物として知られています。

義重は本貫地の地名に因み「新田」姓を掲げた事から、新田家の始祖とされ、当社は源氏一門守護の氏神を鎮祭したと云われている為、当初は八幡神が祀られていたのかも知れません。

承安4年(1174)、源義経は元服前に出家して鞍馬寺の僧侶になる事が生かされる条件でしたが、出奔し奥州藤原氏の当主である藤原秀衡を頼って平泉に下向、その際、源氏所縁の当社を訪れたそうです。

義経は社殿に上り無事、平泉に着く事を祈願したところ、神殿の背後が神々しく光り出した事から神意と悟り、3月3日の桃の節句に鏡の宿で自ら元服した際に利用した烏帽子の冠に奉持した伏見稲荷大社の祭神など二柱の御霊と神札を奉納したそうです。

鎌倉時代末期になると義重の後裔である新田義貞が当社を篤く帰依し、一年間で53回の例祭を当社で行い数多くの社宝、神田の寄進、愛用の兜には稲荷大明神を刻んだそうです。

元弘3年(1333)、後醍醐天皇の鎌倉幕府の討幕運動に呼応した義貞は当社で戦勝祈願を行うと、愛用の兜に稲荷神の御霊が降臨し、見事、幕府を倒す事が出来ました。

義貞は神意に感謝し、重箱獅子を奉納し、境内にキンモクセイを植樹、神領を寄進する等、益々当社を崇敬したと伝えられています。

例祭で奉納される細谷冠稲荷の獅子舞は義貞が重箱獅子を奉納したことに由来するとされ、貴重な事から太田市指定重要無形民俗文化財に指定されています。

戦国時代には新田家の後裔である岩松氏が細谷村を知行した事から当社を崇敬したと思われ、江戸時代末期に上野国新田郡下田嶋領主で交代寄合旗本だった岩松道純が当社拝殿の天井絵を描いています。

江戸時代中期頃に源義経と新田義貞の当社での故事に倣い「冠稲荷」と呼ぶ習わしとしました。

古くから神仏習合し高野山真言宗の教王寺が別当寺院として祭祀を司ってきましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され、社号を冠稲荷神社に改め村社に列格しています。

冠稲荷神社は文化財が多く本殿並びに聖天宮と拝殿、最上流算額文化11年銘、附関流算額文化9年銘が群馬県指定文化財、冠稲荷のボケが群馬県指定天然記念物、細谷冠稲荷の獅子舞が太田市指定重要無形民俗文化財にそれぞれ指定されています。

又、冠稲荷神社は伏見稲荷大社、豊川稲荷、信太森葛葉稲荷神、王子稲荷神社、嬬恋稲荷、一瓶塚稲荷神社と共に日本七社(日本七稲荷)の一つとも云われています。

冠稲荷神社は特に縁結び・子宝・安産・子育て・健康諸願成就に御利益があるとして広く知られ、数多くの参拝者がその御神徳を求め訪れています。

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