武田神社 |
| 全国の歴史的(遺跡・遺構・遺物・建造物)>武田神社 |
武田神社 |
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| 読み方 | ・たけだじんじゃ |
| 祭 神 | ・武田信玄 |
| 場 所 | ・山梨県甲府市古府中町 |
| 備 考 |
武田神社:由来・歴史・概要
・武田神社は、甲斐源氏第19代当主、甲斐武田家第16代当主、甲斐国守護職を担った武田信玄を祭神として祀っている神社です。 武田信玄は大永元年(1521)に武田信虎と大井氏の娘・大井夫人との間に嫡長子として生まれ、信虎は甲斐国を統一したものの圧制を敷いていたと見られ、信玄が元服して数年後の天文10年(1541)に有力家臣達により駿河国に追放となった為、武田家の家督を継いでいます。 信玄は隣国に侵攻する一方で、棟別諸役の確立や、検地、甲州法度次第の制定、治水事業による信玄堤の築造とそれに伴う、新田開発を行っています。 又、鉱山開発によって金の増産を図り、日本初の金貨である甲州金の鋳造、大小切税法の制定、甲州桝による度量衡の統一を行いました。 これらの功績から、元亀4年(1573)に信玄が死去した後も、甲斐国の領民は「信玄さん」又は、「信玄公」と呼んで敬愛し、中には信仰の対象となりました。 さらに、甲斐国出身の著名人の中では最も全国的にも知られた存在で、戦国大名の勇として名を馳せた事から、甲斐国の英雄として領民達の誇りでもありました。 明治維新後に、信玄が制定したとされ、甲斐国民の生活に密着していた大小切税法が廃止され、地租改正が断行されると、大きな反対運動が起こりました。 反対運動は鎮圧されたものの、遺恨が残った為、その懐柔政策の一環として信玄の御霊を祭神とする「機山公霊社」創建が計画されましたが、莫大な公費が掛かる為、断念しています。 明治32年(1899)にも県内外から信玄祭祀の神社の創設の協力者が「武田会」を結成し、明治37年(1904)には日露戦争の関係で、信玄が軍神として崇められるようになりました。 武田信玄は元服時に、父親の武田信虎の最初の官途であった従5位下左京大夫に任ぜられていましたが、大正4年(1915)、大正天皇の即位を記念して従三位を送られています。 従三位追贈御沙汰は大正5年(1916)、信玄の墓前にて行われ「天皇の大命に座し 大膳大夫従五位下 武田晴信の墓前に宣給はくと宣る 汝命は元亀 天正頃 甲斐国にうしわきて 物部の道に猛き名を挙げましのみなは 其領知れる国内の政に心を深めて 産業の道を彌奨に奨め 或は河川に 堤防を築きて水の害を除き 後世に至るまで人民をして その恩恵を蒙らしめし事をうむかしく思し召し 其の功績を褒め給ふと為て 今回特に従三位を贈らせ給ひ 位記を授け給ふ。」と発せられています。 この際、正統な受取人となる子孫の調査が行われ、武田信玄の次男である海野信親の後裔の家系が信玄に最も近い、武田家の正統と認められています。 信玄の従三位が追贈されたのを契機に、武田神社創建の機運が高まり、山梨県知事を総裁とする官民一体で「武田神社奉建会」が創設されました。 境内地が躑躅ヶ崎館の跡地に定められると、社殿造営と境内整備の為の浄財を募り、大正8年(1919)に社殿が竣工し、信玄の命日である4月12日に例祭が行われています。 神宝の太刀は武田信玄の正室である三条夫人の実家の後裔で、明治13年(1880)6月に行われた明治天皇の山梨県巡幸で供奉し当地を訪れ、当時の太政大臣の三条実美が寄進したものです。 太刀は備前吉岡一文字派が鎌倉時代末期から南北朝時代に制作したもので、長さ64.5cm、反り2.9cm、鎬造、庵棟、貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。 境内には広く寄進を受けた苗木が成長し、数百種類の樹木が生い茂り、中でも「三葉の松」は全国的にも珍しく、紅葉の時期には黄金色に染まり、その葉を身に着けると「金運」に御利益があるとして信仰されています。 境内に残されている「姫の井戸」は信玄の娘が生まれた際、産湯として使用されたものと伝わる名水で、延命長寿と万病退散に御利益があると伝えられています。 境内一帯は躑躅ヶ崎館の跡地として貴重な事から昭和15年(1940)に国指定史跡に指定されています。
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