酒折宮 |
| 全国の歴史的(遺跡・遺構・遺物・建造物)>酒折宮 |
酒折宮 |
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| 読み方 | ・さかおりみや・さかおりのみや |
| 祭 神 | ・日本武尊 |
| 場 所 | ・山梨県甲府市酒折3丁目 |
| 備 考 |
酒折宮:由来・歴史・概要
・酒折宮が何時頃開創されたのかは判りませんが、古事記で日本武尊と御火焼の老人が問答歌を行った地とされ、日本書紀にも同様な記載があります。 古事記によると「即ちその国より越えて、甲斐に出でまして、酒折宮に坐しし時歌ひたまひしく、新治筑波を過ぎて幾夜か寝つるとうたひたまひき。爾に其の御火焼の老人、御歌に続ぎて歌ひしく、かがなべて夜には九夜日には十日をとうたひき。是を以ちて其の老人を誉めて、即ち東の国造を給ひき。」と記されています。 一方、日本書紀によると「常陸を歴て、甲斐国に至りて、酒折宮に居します。時に挙燭して進食す。是の夜、歌を以て侍者に問ひて曰はく、新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる 諸の侍者、え答へ言さず。時に秉燭者有り。王の歌の末に続けて、歌して曰さく、日日並べて 夜には九夜 日には十日を 即ち秉燭人の聡を美めたまひて、敦く賞す。則ち是の宮に居しまして、靫部を以て大伴連の遠祖武日に賜ふ。」と記されています。 この片歌の問答が文献上初めての連歌だった事から、酒折宮が連歌発祥の地とも云われています。 甲斐国(現在の山梨県)では古事記、日本書紀の両方に記載されている神社は無く、甲斐国内では最も古い歴史を継承している神社とも言えます。 又、当社に伝わる伝承によると、日本武尊が当地を去る間際、上記の御火焼の老人と同一人物と思われる塩海足尼に火打嚢を授け「吾行末ここに御霊を留め鎮まり坐すべし」との御言葉を頂いた事から、月見山の中腹に社を設け火打嚢を祭神として祀ったのが酒折宮の始まりと伝えられています。 当社背後に控える月見山は御室山との別称があり、その中腹には古天神と呼ばれる場所があり、当初の酒折宮の鎮座地だったとも云われています。 古天神の近くにある酒折古墳は7世紀頃に築造された円墳で、直径約10m、高さ約2m、無袖の横穴式石室、当社との関係性は判りませんが、甲府北山筋の族長クラスの墳墓と推定されています。 月見山は方向によっては綺麗な三角形の山容を見せる神奈備型で、麓から山頂までは三か所の岩石群は磐座に見立てられていたと見られ、古代人の素朴な自然崇拝が信仰の源泉だったかも知れません。 一方、地名の「酒折」は日本武尊の為、酒宴を開いて饗応したからとも、中世、「甲斐九筋」と呼ばれた若彦路・中道往還・駿州往還・鎌倉街道・秩父往還・青梅街道・穂坂路・逸見路・棒道の起点となった事から「坂」や「境」が折り重なった事が起因してるとも云われています。 戦国時代には甲斐国守護職の武田家の庇護により社領200石が安堵されていましたが、天正10年(1582)に織田・徳川連合軍による武田領侵攻により武田家が没落すると、当社は外護者を失い衰微しました。 江戸時代に入ると、酒折宮が古事記、日本書紀所縁の神社で、連歌発祥の地として広く知られるようになった事から、文人墨客が数多く訪れるようになり、17世紀後半には土佐派の土佐光起が酒折宮の創建伝説に基づいた「酒折連歌図」を描いています。 享保年間(1716〜1735年)には甲府藩主だった柳沢吉里の命により「甲府八景和歌」が定められ、冷泉為綱が「酒折夜雨」と詠っています。 その他にも、天保12年(1841)に歌川広重が筆した「甲州日記」や、嘉永元年(1848)に歌川国芳が筆した「甲斐名所寿古六」、江戸時代後期に中林竹渓の「酒折宮図」にも酒折宮が描かれています。 又、宝暦12年(1762)には山縣昌貞謹撰の「酒折祝碑」、寛政3年(1791)には本居宣長撰文で平田篤胤書の「酒折宮寿詞」が建立されています。 明治時代初頭に発令された神仏分離令を経て村社に列格しています。
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