北口本宮冨士浅間神社

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北口本宮冨士浅間神社
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北口本宮冨士浅間神社
北口本宮冨士浅間神社
読み方 ・きたぐちほんぐうふじせんげんじんじゃ
祭 神 ・木花開耶姫命、天孫彦火瓊瓊杵命、大山祇神
場 所 ・山梨県富士吉田市上吉田
備 考
北口本宮冨士浅間神社:由来・歴史・概要

旧境内地は古くから富士山の遥拝所として知られ、大塚丘と呼ばれていたそうです。

十二代景行天皇40年(110)に、皇子である日本武尊が東征を完遂し、結婚の約束をしていた宮簀媛が待つ尾張国に凱旋の折、大塚丘に登り富士山を遥拝しました。

大塚丘から望む富士山の美しい山容に感動した日本武尊は「富士は北の方より拝せよ」との詔を発せられました。

詔を拝受した村人達は日本武尊の旧跡に鳥居、同天皇50年(120)には小祠を建て、浅間明神の御霊と日本武尊の御霊を勧請し、奉斎したのが当社の起こりと伝えられています。

天応元年(781)に富士山が噴火すると、その後も火山活動は終息せず、甲斐国内に大きな被害を与え続けました。

延暦7年(788)に甲斐国主の紀豊庭朝臣は富士山の火山活動を沈静化させる為、占いを行うと、それに従い、大塚丘の北側である現在地に社殿を造営し、浅間明神のみを遷座、残された日本武尊の御霊は引き続き大塚丘で奉斎しました。

境内(現在の社殿)の四方を霊験の高い御神木で囲んで、エネルギーが集約する聖地として整備し、そこでひれ伏して富士山を遥拝する事が、当初の礼拝方法だったと推定されています。

駿河国側にも浅間神社が開創されていましたが、神官が祭祀を怠っていた事から、浅間明神の怒りを買い貞観6年(864)から貞観8年(866)に再び富士山が大噴火しました。

それに激怒した朝廷は、仁和3年(877)に当時の甲斐守藤原當興朝臣に改めて甲斐国で浅間明神を篤く奉斎し富士山を鎮めるように命じた為、社殿が造営されています。

鎌倉時代の正式な歴史書である「吾妻鏡」によると、貞応2年(1223)に鎌倉幕府2代目執権北条右京権大夫朝臣義時が、富士山本宮浅間大社の遷宮の儀を執り行い、同年に当社の東宮本殿を創建しています。

元久2年(1205)に発生した畠山重忠の乱後に甲斐国に入部したと思われる小山田氏から庇護され、天文17年(1548)5月26日には小山田出羽守信有が当社の前身と思われる吉田諏訪神社の禰宜に対し、富士山の神事を行う為に新宮を設ける際には披露するように命じています。

永禄2年(1559)7月18日には小山田弥三郎信有が当社と思われる「諏方御浅間大菩薩」に対して武運長久の願文を奉納し、念願成就した際には御戸之内金と金襴の戸張一流を寄進する事を約束しています。

永禄4年(1561)4月21日にも小山田弥三郎信有が出兵の折、武運長久と無病息災の願文を奉納し、念願成就した際には神馬一疋を奉納する事を約束しています。

さらに、永禄5年(1562)5月吉日に病気平癒等を祈願した際には、最花銭として拾三貫之代物を寄進し、念願成就した折には別当寺院となる神護寺の創建や、回廊の造営、浅間明神の本地仏として両菩薩と大日如来の尊像の造立、役所一ヵ所の寄進などを約束しています。

一方、小山田氏が従った甲斐国守護職武田家も当社を篤く庇護し、永禄4年(1561)3月2日には武田信玄が当社の前身と思われる諏訪神社の境内を指している「吉田の諏訪の森」からの木材の伐採を禁止しています。

同年には敵対していた上杉謙信との決戦である川中島の戦いの戦勝を祈願して北条義時が造営した「東宮本殿」の建て替えを行っています。

天正10年(1582)に織田、徳川連合軍が武田領に侵攻し、武田家と小山田家が没落すると、外護者を失いましたが、その後に谷村城の城主に抜擢された浅野左衛門佐氏重が文禄3年(1594)に信玄が造営した今迄の本殿を東側に遷し、新たな本殿を造営しています。

江戸時代に入ると歴代谷村藩主が庇護し、元和元年(1615)に鳥居土佐守成次は氏重が造営した本殿を西側に遷し、新たな本殿を造営、現在の本社本殿、東宮本殿、西宮本殿の体制が確立し、何れも貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。

宝永元年(1704)に秋元喬知が川越藩に移封になると、谷村藩領は甲府藩に組み込まれた為、谷村藩は廃藩となり外護者を失いましたが、その後は天正5年(1577)に富士山の登拝を果たした、藤原角行師が開いたとされる富士講が、当社の運営に大きな影響力を行使しました。

特に、藤原角行師の6世の弟子にあたる村上光清師が率いた村上請が最も規模が大きく、村上光清が主導で老朽化していた社殿を私財と浄財を募って享保18年(1733)から元文3年(1738)に造営しています。

江戸時代中期以降に一般庶民にも行楽嗜好が高まると、富士講は関東や北陸、東北、関西地方までも拡大しています。

最盛期には門前町に御師の家が86軒立ち並び、幕府のお膝元の江戸では「江戸の八百八町に八百八講あり」と謡われています。

明治時代初頭に発令された神仏分離令と修験道廃止令により仏教色が一掃され、仏教色が強い仁王門や三重塔、護摩堂、鐘楼等は破却されています。

現在、参道に残されている仁王門の礎石は神仏混交の名残を留めたものとして貴重な事から富士吉田市指定文化財に指定されています。

中世までは当地の産土神と思われる諏訪神社が主体でしたが、戦国時代の武田家や小山田氏の帰依により浅間明神を奉斎する事が確立し、江戸時代中期以降は富士講の隆盛によって「諏訪大明神」よりも「浅間大菩薩」や「富士浅間明神」の方が知られるようになりました。

神仏分離令により神道として独立すると社号を「冨士山北口本宮冨士嶽神社」に改め、元々主体だった諏訪神社は当社の摂社となっています。

その後、「浅間神社」に改称、さらに昭和21年(1946)に現在の「北口本宮冨士浅間神社」に改めています。

平成23年(2011)に境内全域と飛地が国指定史跡に指定され、平成25年(2013)に富士山世界文化遺産の構成資産として登録されています。

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