赤沢宿 |
| 全国の歴史的(遺跡・遺構・遺物・建造物)>赤沢宿 |
赤沢宿 |
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| 読み方 | ・さあかさわじゅく |
| 文化財 | ・早川町赤沢重要伝統的建造物群保存地区 |
| 場 所 | ・山梨県南巨摩郡早川町赤沢 |
| 備 考 |
赤沢宿:由来・歴史・概要
・赤沢の地は日蓮宗の総本山である身延山久遠寺の守護神とも、奥之院とも云われる七面山を結ぶ登拝道の中間に位置しています。 当初は周辺の山々から木材を切り出す樵や、ヒノキの薄板を曲げて作った曲物や、その細工物の制作を生業とする人々が暮らす静かな山村だったとされます。 文永11年(1274)に甲斐源氏の一族で甲斐国波木井郷の地頭だった南部六郎実長は日蓮上人を篤く帰依していた事から、佐渡に流刑となり鎌倉に帰参していた日蓮上人を波木井郷に招いています。 日蓮上人は西谷の地に草庵を構え日蓮宗の布教に尽力、建治3年(1277)には赤沢の地に境内を構えている妙福寺が日蓮の高弟で六老僧の一人、日朗から教化を受け、真言宗から日蓮宗に改宗しています。 同年、日蓮が説法をしている最中、七面山にある池の守護神の化身である天女が出現し、自分は法華経信者の守護する事を告げ、龍の姿に戻り七面山の山頂に飛び去って姿を消したそうです。 弘安5年(1282)に日蓮が死去すると、遺志を継いだ弟子達が見延山を日蓮宗の聖地として整備し、永仁5年(1297)に日朗と南部實長が七面山を登拝した際、山頂付近に七面大明神を奉斎する敬慎院を開創しました。 その後は七面山が久遠寺の守護神、奥之院として位置付けられ、久遠寺と敬慎院を結ぶ参詣道が整備され、赤沢集落はその中継地として重きを成しました。 天正19年(1591)の検地帳には家屋が17戸として記載され、江戸時代初期には隣接する小縄集落と高住集落と合わせて「小縄高住赤沢村」と表記されるようになりました。 元々、七面山は女人禁制の聖地として参拝者が限定的でしたが、寛永17年(1640)、江戸幕府初代将軍徳川家康の側室で、紀州徳川家の祖である徳川頼宣と、水戸徳川家の祖である徳川頼房の生母である養珠院お萬の方が、七面山を登拝したことで女人禁制が解かれたとされます。 養珠院お萬の方は日蓮宗の信者で、身延山二十二世心性院日遠上人を帰依し、七面山の登拝を強く希望した事で、登拝口に程近い白糸の滝で7日間滝行によって身を清め、女性初の登拝者となりました。 これにより、日蓮宗の女性の信者が七面山を目指すようになり、赤沢集落も、さながら宿場町のように宿泊や休憩地として利用されるようになりました。 特に、江戸時代中期以降は一般庶民の行楽嗜好が高まり、各地で「講」が結成されると、身延講から七面山を目指す者も増え、それに伴い赤沢集落の住民達は古来からの林業や木工業を生業とする一方で、旅籠、強力、駕籠人足、身延山と七面山との連絡役や物資運搬等も行い活況を呈したとされます。 又、七面山までの登拝道には久遠寺や敬慎院との関係が深い寺院や坊が置かれるようになり、赤沢集落も講中宿場としての形態が次第に整えられたそうです。 江戸時代後期から明治時代にかけては、最も登拝者が多く雑貨商と蕎麦屋が各1軒の他、恵比須屋、玉屋、両国屋、大黒屋、萬屋、喜久屋、信濃屋、清水屋、大阪屋、江戸屋の屋号を掲げる9軒の旅籠があり、連日満室だったようです。 しかし、昭和30年代以降は道路の整備が進み、中腹まで自家用車が利用出来るようになった事から、赤沢で宿泊する参拝者が激減しています。 現在も講中宿の家並みや石畳等、当時の歴史的景観が色濃く残されている事から主屋、蔵、外便所、付属屋等の伝統的建造物84戸、石碑、石塔、石仏、門等の工作物39件、石垣、湧水池、古道等の環境物件118件、森林、畑等を含む25.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。 又、赤沢宿の石畳は名称「やすらぎの参道」として「手づくり郷土賞」の「いこいとふれあいの道30選」部門を受賞しています。
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