乙女八幡宮の鳥居

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乙女八幡宮
乙女八幡宮
乙女八幡宮
乙女八幡宮
名 称 ・乙女八幡宮の鳥居
読み方 ・おとめはちまんぐうのとりい
祭 神 ・誉田別命
場 所 ・栃木県小山市乙女
建築年 ・元禄16年=1703年
種 類 ・明神鳥居
材 質 ・石製
形 状 ・柱間3.26m、中心高3.92m
製作者 ・−
奉納者 ・願主:光明寺。
・施主:高嶋忠左衛門、舟問屋青木主水尉、石屋三左右衛門
文化財 ・小山市指定文化財
評 価 ★★★★★★★☆☆☆
感 想 ・均整のとれた鳥居で、石造の無骨さは感じられません。市内5番目の古さではありますが江戸時代中期の鳥居だけあって古いという印象は薄いです。
備 考
乙女八幡宮:由来・歴史・概要
・乙女八幡宮は鎌倉時代に開創されたと伝わる神社で、その後の詳細は不詳ですが当地の鎮守として奉斎されたと思われます。 慶長5年に発生した関ヶ原の戦いでは、西軍に与した会津の上杉景勝領に侵攻する為、兵站の拠点として乙女河岸が整備されたと推定され、以後は乙女河岸に関わる人々から篤く信仰を集めました。

乙女河岸は思川舟運の一大拠点で、ここから上流は小型の船でしか行き来出来なかった為、乙女河岸で荷物の詰め替えが行われました。特に、日光東照宮造営や修復時には大量の資材や職人達の食料となった米等が必要となり乙女河岸は活況を呈したとされます。

元禄16年に石鳥居を奉納した青木主水尉照朝がどの様な人物かは判りませんが、乙女河岸があり、日光街道の宿場町だった間々田宿の本陣は代々青木家が歴任し、乙女河岸にあった3軒の河岸問屋の内、中河岸問屋は青木与右衛門家、下河岸問屋は青木覚左衛門家が勤めていた事から、相当な実力者だった事が窺えます。

青木家の他にも石鳥居には下館大町(茨城県)の有力商人高嶋忠左衛門勝広や栃木町の石屋三左右衛門等の名前が見られ、当社との関係性が窺えます。

又、上河岸問屋の山中八郎兵衛家の当主だったと思われる山中隼人は太刀(銘正宗)を奉納しており、一度盗難にあったものの、その後戻され現在が小山市立博物館に展示されています。

古くから神仏習合し別当寺院だった光明寺が祭祀を司っていましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により廃寺となり、明治5年に村社に列格し、明治40年に神饌幣帛料供進社に指定されています。

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