高松山観音寺(本宮市)

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高松山観音寺
高松山観音寺の画像
高松山観音寺の画像
高松山観音寺の画像
高松山観音寺の画像
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名 称 ・高松山観音寺
読み方 ・たかまつやまかんのんじ
場 所 ・福島県本宮市糠沢高松
備 考
高松山観音寺:由来・歴史・概要
・高松山観音寺は大同2年(807)に徳一大師が開創したと伝わる天台宗の寺院です。

伝承によると徳一大師が巡錫で当地を訪れた際、山中で霊木を発見した事から、薬師如来像と十二神将像、釈迦如来像、地蔵菩薩像を自ら彫刻し一宇を設けて仏法興隆を祈願したと伝えられています。

その後、守護神として出羽三山から月山権現、羽山権現(現在は出羽三山の一角を外れています)、羽黒権現を勧請し、松の古木、大木が多かった事から高松山と名付けられました。

平安時代後期に発生した前九年合戦の際には当地まで進軍した源義家が戦勝祈願を行ったとされ、治承年間(1177〜1180年)に文覚上人が不動明王像(汗かき不動)を背負って当山に入り、その後、長く住職として務めて当寺の興隆に務め中興の祖と位置付けられています。

最盛期には境内には七堂伽藍が整備され12の坊舎が建ち並び数百人に及ぶ僧侶が勤め奥の高野山との異名がありましたが、戦国時代の天正13年(1585)に伊達政宗の兵火により全山焼き討ちとなり堂宇は悉く焼け落ち、寺宝や記録等も焼失しています。

その際、梵鐘も阿武隈川に投げ捨てられた事から「鐘が淵」、梵鐘に設えられていた龍頭だけが高松山に舞い戻り神々しい光を放った事から「常光明山」と呼ばれるようになったと伝えられています。

その後、定覚和尚によって再興が果たされ、江戸時代には会津藩主加藤嘉明が寺領を寄進し、当地が二本松藩領になると藩主丹羽家の祈願所として保護に務めています。

明治時代初頭に発令された神仏分離令により奥の院から高松大権現大日如来を当寺に遷し秘仏として奉斎する事となっています。

本堂は天保5年(1834)に再建された建物で、木造平屋建て、寄棟、桟瓦葺き、平入、桁行5間、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、内部には本尊として阿弥陀如来像、脇侍として観音菩薩像と勢至菩薩像が安置されています。

子安地蔵堂は切妻、桁行2間、梁間2間、懸造り、内部には子守地蔵菩薩が安置されています。

薬師堂は文禄4年(1595)に造営された建物で、木造平屋建て、宝形造、桟瓦葺き、桁行3間、梁間3間、正面1間向拝付、四方縁側付、外壁は真壁造り板張り、内部には本尊として薬師如来像(秘仏)、脇侍として毘沙門天王像、不動明王像(いずれも秘仏)、それを囲むようにして十二神将像が安置されています。

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