鈴木重謙屋敷:由来・歴史・概要
・鈴木家は江戸時代に越後高田藩領下泉村の庄屋を歴任した家柄で、寛政3年(1791)には石川組16ヶ村の大庄屋を兼務した事から、藩からは士分と同等の格式を持つ郷士の家格を与えています。
江戸時代は身分制度が厳しく、農民には立派な表門を設ける事は御法度でしたが、鈴木家は郷士の格式を得た事から表門建設を許可されたと推定されます。
表門は文化4年(1807)に建てられた建物で、切妻、銅板葺き、一間一戸、潜戸付、間口約1間半(2.73m)、奥行1間(1.8m)、薬医門形式、両袖付き、棟梁は芳賀郡市貝村出身の宮大工、町井六左衛門、建築年代や棟梁が明確で江戸時代後期の上層農家表門の遺構として貴重な事から平成7年(1995)に石川町指定文化財に指定されています。
町井六左衛門は永(長)野万右衛門を大棟梁とした宮大工一団の1人で石川町の板橋山光渡寺や郡山市安積町の東光寺等を手掛けたとされます。
主屋は19世紀後半頃に近隣の上層農家建築として建てられたものの、明治元年に鈴木家の邸宅が打ち壊しにより破却された為、その直後頃に鈴木家に移築されたと伝わるもので、木造平屋建て、寄棟、旧茅葺、平入、桁行8間(15.25m)、梁間5間(9.64m)、延べ床面積152.23u、江戸時代後期の上層農家住宅の遺構として貴重な事から平成7年(1995)に石川町指定文化財に指定されています。
明治時代になると当主である鈴木荘右衛門とその子供である鈴木重謙は自由民権運動で活躍しています。一方、主屋の一部が石川区会所として利用され初代区長で自由民権運動の先導者、後の衆議院議長を務めた河野広中が政務を執った事から歴史的にも貴重な存在です。
福島県:歴史的建造物・再生リスト
|