御蔵稲荷神社(小田付館跡)

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御蔵稲荷神社(小田付館・代官所跡)
御蔵稲荷神社
名 称 ・御蔵稲荷神社の鳥居
読み方 ・おくらいなりじんじゃのとりい
祭 神 ・宇迦之御魂神
場 所 ・福島県喜多方市字大豆田
種 類 ・鹿島鳥居
材 質 ・木製
文化財 ・伝統的建造物(工作物)
評 価 ★★★★★☆☆☆☆☆
感 想 ・規模は余り大きくありません。一般的な稲荷神社は笠木が五角柱状の稲荷鳥居が採用される例が多いですが、当社では笠木が円柱の鹿島鳥居が採用されているようです。
備 考
御蔵稲荷神社:由来・歴史・概要
・御蔵稲荷神社の詳細は不詳ですが、境内は江戸時代に小田付代官所が設けられている事から、その鎮守社として開創されたと思われます。

境内は元々、小田付館と呼ばれる中世の居館跡で、築城年は不詳ですが戦国時代の天正年間には東北南部に大きな勢力を誇った蘆名家の四天宿老に数えられた佐瀬大和守種常又は五十嵐善次郎昌勝の本拠地でした。

種常は蘆名領の財政面で活躍し、耶麻郡中田付にあった六歳市が不便で商人達から不評だった事から小田付村に遷し便宜を計っています。又、蘆名家に従い各地に転戦し、蘆名家の没落で多くの家臣が離反する中、天正17年の摺上原の戦いでは養子の佐瀬常雄と共に壮絶な最後を遂げました。

これらの忠誠心は会津藩主松平容保がいたく感動し、後世に伝える為に嘉永3年に古戦場跡に三忠碑を建立しています。

五十嵐善次郎昌勝の詳細は判りませんが、江戸時代に編纂されたと思われる「会津古塁記」によると慶徳兵部少輔祐長の次男で土塁の規模は東西五十一間南北三十八間と記されている為、蘆名家の家臣である慶徳氏の一族だった事が窺えます。

その後、小田付館は廃城になったと思われますが、当地は地域の経済的な中心として重要視された為、天明8年に会津藩によって小田付代官所が設けられています。

小田付代官所は河沼郡浜崎郡役所に属し、小田村、小荒井の両組を管轄し、屋敷内には代官所の他、藩の御蔵(米蔵)が2棟設置されていました。

幕末の文久2年には上三宮代官所の所属だった五目組と慶徳組も当代官所に属する事になっています。

御蔵稲荷神社の祭神である宇迦之御魂神は作物、食物の神で土地の守護神でもある為、代官所や御蔵の鎮守社として開創され、歴代代官から崇敬を受けたと思われます。

喜多方市小田付が国の伝統的建造物群保存地区選定されると社殿(本殿・拝殿)と鳥居が伝統的建造物に、社叢林が環境物件に指定されています(社殿を取り囲む大木が評価されたと思われます)。

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