鵜江神社 |
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鵜江神社 |
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名 称 | ・鵜江神社大鳥居 |
読み方 | ・うのへじんじゃのおおとりい |
祭 神 | ・吉備津彦命、又は楽楽森彦命 |
場 所 | ・岡山県小田郡矢掛町西川面 |
建築年 | ・享保3年=1718年 |
種 類 | ・明神鳥居 |
材 質 | ・石造(花崗岩) |
形 状 | ・高さ450cm、幅600cm、柱外周143cm |
製作者 | ・− |
奉納者 | ・− |
文化財 | ・矢掛町指定有形民俗文化財 |
評 価 | ・★★★★★★★☆☆☆ |
感 想 | ・ |
備 考 |
鵜江神社:由来・歴史・概要
・仁徳天皇の勅令で吉備津神社の5社の神殿が創建され鵜江神社はその一社とも、同時期に創建された吉備津神社の末社七十二社の一社とも云われ、仁徳天皇も当社に参拝に訪れたとされます。
一方、伝承によると吉備津彦が死去した際、遺骸を入れた棺から鵜が出現し、その鵜が西方に飛び立って降り立った事から、聖地と悟り鵜の里と名付けると吉備津彦命の荒魂を鎮める為に当社を開創したと伝えられています。 別説によると垂仁天皇の御代に吉備津彦命が温羅(伝承上の鬼・人物で、古代吉備地方の統治者であったとされる。)を討伐した際、温羅は不利を悟り戦線を離脱し落ち延びようとしたものの樂々森彦命が見事捕縛しました。樂々森彦命が温羅を捕縛する姿が鵜に似ていた事から鵜江神として奉斎されるようになった伝えられています。 又、矢掛町東川面字川田に鎮座している木野山神社の境内には祭祀で利用されたと思われる土器(有脚小杯)が出土している事から古代祭祀跡とも考えられ、時代背景から察すると当社の信仰の源流だった可能性があります。 当初は矢掛町東川面に鎮座している大元鵜江神社の境内に鎮座していたようですが、その後、現在地に遷座したとされます。 鵜江神社は格式が高く文徳実録では従五位下に列格したと事が記されており、延喜式神名帳には式内社として記載されています。 中世は西川面城の城主渡邊家が祭祀を司り、永禄7年(1564)には渡邊河内守藤原資家が本殿を再建しています。 現在の本殿はその当時の建物で一間社流造、間口1間、梁間2間、背面2間、正面1間向拝付、四周縁側高欄付、本殿全体が弁柄色に彩られています。 渡辺家が没落すると外護者を失い衰微しましたが、江戸時代は小田郡川面村を中心に近隣七カ村の産土神として篤く奉斎されています。 古くから神仏習合し本地仏として薬師如来像が奉斎され「卯之宮大明神」や「宇野宮大明神」と称していましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され、明治5年に郷社に列格、明治40年1月神饌幣帛料供進神社に指定されています。
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鵜江神社:付近地図 |
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