流護因神社の鳥居

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流護因神社
流護因神社
流護因神社
流護因神社
流護因神社
名 称 ・流護因神社の鳥居
読み方 ・ながれごいんじんじゃのとりい
祭 神 ・祭神:樹下僧護因
場 所 ・滋賀県大津市坂本坂本5丁目
建築年 ・−
種 類 ・明神鳥居
材 質 ・石造
形 状 ・−
製作者 ・−
大願主 ・−
奉納者 ・−
文化財 ・伝統的建造物(工作物)
評 価 ★★★★★☆☆☆☆☆
感 想
備 考
流護因神社:由来・歴史・概要
・流護因神社は樹下僧護因を祀る神社です。

当社の本社である日吉大社の縁起書「耀天記」によると、後冷泉天皇の御代に天皇の在位が長く、皇太弟が中々即位出来ず悩んでいました。

そこで、「御願書」をしたため比叡山延暦寺の僧である覚尋に命じて日吉大社西本宮まで届けさせようとしましたが、覚尋は後冷泉天皇を護持する立場だった事から提出出来ず困ってしまいました。

すると、西塔西谷の法師(その後日吉大社の社僧)である護因がどこからともなくやってきて覚尋の代わりに「御願書」を日吉大社西本宮の神に取り次ぎ、それから左程時がたたない内に皇太弟が後三条天皇として即位しました。

後三条天皇は神意に感謝し延久3年に日吉大社参拝の為に行幸が行われ、歴代天皇もこれに倣ったとされます。

「御願書」の存在は後三条天皇と覚尋しか知らないはずなのに、それを知っていた護因は本物の験者、又は化人だろうと推察され、その法力は全国に知られるようになりましたが、護因が死去すると次々と問題が発生した事から、社を設けて護因の御霊を奉斎すると不思議と治まったと伝えられています。

当初は日吉大社の東本宮本殿の裏に鎮座し、内井の護因と呼ばれていましたが、安貞2年に小谷川が氾濫し社殿が流出、当地に流れ着いた為、神意と悟り正式に現在地に遷座し流護因と号するようになったとされます。

境内地が国から大津市坂本伝統的建造物群保存地区に選定されると一間社流造、間口二尺六寸、奥行二尺の本殿が伝建特定の建造物、鳥居と燈籠(2基)が伝建特定の石造物に選定されています。

流護因神社:付近地図
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