倶利迦羅不動寺(日本三不動尊)

  全国の歴史的(遺跡・遺構・遺物・建造物)>倶利迦羅不動寺(日本三不動尊)

倶利迦羅不動寺(日本三不動尊)
倶利迦羅不動寺(日本三不動尊)
倶利迦羅不動寺(日本三不動尊)
倶利迦羅不動寺(日本三不動尊)
倶利迦羅不動寺(日本三不動尊)
倶利迦羅不動寺(日本三不動尊)
名 称 ・倶利迦羅不動寺
読み方 ・くりからふどうじ
本 尊 ・倶利迦羅不動明王
場 所 ・石川県河北郡津幡町倶利伽羅
備 考
倶利迦羅不動寺:由来・歴史・概要
・養老2年(718)、善無畏三蔵法師が元正天皇の勅願により、当地で国土安穏の祈祷を行っていた際、剣に巻き付いた黒龍が出現した事から、仏意と悟り、その姿を模した木像を彫刻し奉斎したのが始まりと伝えられています。

一方、長楽寺縁起によると、養老2年(718)に善無畏三蔵が山の魔性を除くため不動三昧耶倶利迦羅龍王陀羅尼を誦し、倶利迦羅龍王を勧請して開創したと記されています。

又、当初は白山信仰が源流で、その後真言宗に転じたとも考えられる為、白山を開山した泰澄大師が倶利迦羅明王を手向神の本地仏として当寺を開創した可能性があります。

境内には同じく善無畏三蔵法師が素戔嗚命の御霊を勧請し、手向神社を創建、天正天皇の国家鎮護の守護神として祈願所になったと伝えられています。

善無畏三蔵法師は中部インドの貴族の家に生れ、幼少の頃から優秀で、摩伽陀国の国王に就任、しかし、兄弟達とは折り合いが悪く、対立が続いた事から出家して密教の習得に務めました。

開元4年(716)に中国長安に入り「虚空蔵求聞持法」「大毘遮那経」などを執筆、その後、布教の為に来日したと推定され、富山県南砺市の安居寺では養老2年(718)に当寺を開山したとの由緒が伝えられています。

「万葉集」巻17によると、天平19年(747)5月に奈良時代の官人・歌人で越中掾を担っていた大伴池主が大伴家持に贈った長歌の中に「礪波山 手向の神に 幣奉り」と記され、既に手向神社が奉斎されていた事が窺えます。

又、「三代実録」の元慶2年(878)5月8日条に、越中国鎮座の「手向神」が従五位下を授与されている事が記され、古代は当地が越中国に属していた事が窺えます。

弘仁3年(812)、真言宗の開祖である弘法大師空海が巡錫で当地を訪れた際、山中から紫雲が棚引くのを見て、引き寄せられると、善無畏三蔵法師が彫刻した倶利伽羅不動尊が光輝いているのを目の当たりにしました。

空海は仏意を悟り、尊像とほぼ同体の倶利伽羅不動尊を彫刻し、それを前仏として別当寺院となる長楽寺を開山、御堂が竣工するまで、日夜護摩法を修法されたと伝えられています。

善無畏三蔵法師と空海との直接的な関係はありませんが、善無畏が執筆した漢訳本を読んだ空海が感銘を受け虚空蔵求聞持法を修法したとされ、空海は善無畏三蔵の旧跡を訪ねて当地を訪れたとも云われています。

寿永2年(1183)、源義仲が大軍を率いて上洛を目指すと、平家は進軍を阻止すべく倶利伽羅峠に布陣しました。

「源平盛衰記」巻29によると、平家軍が「倶梨伽羅ノ堂」などに布陣したと記されている事から、当寺が軍事的に利用された事が窺えます。

倶利伽羅峠の戦いを勝利した源義仲は手向神社を訪れ太刀一振りを寄進しています。

建久7年(1196)には長楽寺の要請を受けた鎌倉幕府初代将軍源頼朝は遠江守重頼を派遣して、倶利伽羅峠の戦いの兵火で被害を受けた建物の再建を行っています。

その際、長楽寺には寺領を寄進すると共に将軍家の祈祷所に定め、手向神社に対しては武運祈誓を行い、広大な社領を寄進したとされます。

室町時代後期から戦国時代にかけての公卿・歌人である冷泉為広が執筆した「越後下向日記」によると延徳3年(1491)3月12日に倶利伽羅峠を越えた際に記した「不動堂」は、当寺の事と思われます。

「天文日記」によると天文5年(1536)から天文16年(1547)にかけて「加州倶利迦羅長楽寺」の住持職をめぐり紀伊順遍と実印が激しく対立しています。

倶利伽羅峠は加賀国と越中国との国境に位置する軍事的要衝だった事から、戦国時代には一向宗の砦が築かれ、天正4年(1576)には一揆軍を掃討する為に上杉謙信が攻め寄せています。

さらに天正12年(1584)には前田利家と佐々成政との戦場になった事から多くの堂宇が焼失し、境内が荒廃しました。

当地が前田家領になると、前田利家の帰依を受けた秀雅上人が再興を図り、慶長5年(1600)には加賀藩初代藩主前田利長が手向神社の社殿を造営しています。

慶長16年(1611)には2代藩主前田利常が手向神社で武運長久を祈願し、社領として倶利伽羅一村一山、131石7斗を寄進、慶長19年(1614)には利長の病気平癒の祈願を行い、不動堂と二王堂の造営を行っています。

寛永年間(1624〜1644年)には本格的な再興が行われ、以来、加賀藩前田家が篤く庇護し毎年御作事奉行が出張して堂宇、社殿等を修繕し、その費用は藩費によって賄われています。

又、境内に沿って開削された北国街道は加賀藩前田家の参勤交代の経路となった事から、当寺は藩主の休憩所ともなりました。

天保7年(1836)に門前の茶屋が出火元となった火災に類焼し、山門や不動堂が焼失し大きな被害を受け、再建されないまま明治維新を迎えています。

明治時代初頭に発令された神仏分離令により、明治2年(1869)に長楽寺は廃寺となり、素戔嗚社と号しましたが、明治5年(1872)に社号を手向神社に復しています。

長楽寺が所蔵していた仏像や仏具など仏教色が強い遺物は、金沢市の宝集寺、小矢部市の医王院、津幡町倉見の専修庵などに遷されています。

昭和24年(1949)に倶利迦羅山不動寺として再興され、本堂として卯辰山忠魂祠堂を、不動堂として高松小学校の御真影奉安殿を移築して寺観を整えています。

長楽寺跡が津幡町指定史跡に指定されている他、 羅漢像と十一面観音像、 頼朝下文は津幡町指定文化財に指定されています。

北陸不動霊場第24番札所。北陸白寿観音霊場第18番札所。成田不動尊と、大山不動尊と共に日本三大不動尊に数えられています。

倶利迦羅不動寺:関係動画

倶利迦羅不動寺:付近地図
MapFanで大きな地図を見る

石川県の鳥居・探勝のリンク
東山菅原神社小坂神社尾山神社金澤神社尾崎神社安宅住吉神社金劔宮(白山七社)
倶利迦羅不動寺氣多大社
※リンクは自由ですが、文章や画像のコピーは禁止しています。何かありましたらメールしてください。
プライバシーポリシーはこちらです。