氣多大社(能登國一宮)

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氣多大社(能登國一宮)
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氣多大社(能登國一宮)
氣多大社(能登國一宮)
名 称 ・氣多大社(能登國一宮)
読み方 ・けたたいしゃ
祭 神 ・大己貴命
場 所 ・石川県羽咋市寺家町
備 考
氣多大社:由来・歴史・概要
・氣多大社の由緒には諸説有り、「気多神社縁起」によると、孝元天皇の御代に能登で怪鳥、大蛇が住民達を苦しめていると、祭神である大己貴命が出雲国から300余柱の神々を率いて出現し、それらを鎮めたと記されています。

「気多社島廻縁起」によると、孝元天皇の御代に能登で鬼神が住民達を苦しめていると、祭神である気多大菩薩の化身と思われる異国の王子が従者を率いて能登を廻り鬼神を掃討したと記されています。

「気多社祭儀録」によると神代から既に鎮座し、崇神天皇の御代に改めて祭神を勧請し創建したと記されています。

又、伝承によると、孝元天皇の御代に現在の七尾市に鎮座している気多本宮の境内地で奉斎され、崇神天皇の御代に当地に遷座したと伝えられています。

養老2年(718)に白山を開山した泰澄大師が伊勢神宮を参拝した際、祭神が霊夢に出現し「 恋しくば 尋ねても見よ 能く登る 一つの宮の 奥の社へ」との御告げがあり氣多大社を訪ました。

その際、一宇を設け、氣多大社の別当寺院となる気多神宮寺を創建したと伝えられ、その後は神仏習合したと思われます。

同年、越前国から羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡の四郡を分立して能登国が成立した事から、能登国の一之宮となり国内祭祀の中心的な役割を持ったと思われます。

しかし、天平13年(741)12月10日に能登国は越中国に併合された事から、越中国の一之宮になった可能性があり、天平18年(746)に越中守に就任した大伴家持が、天平20年(748)に氣多大社を訪れています。

その際に詠んだ「志雄路から 直越え来れば 羽咋の海 朝なぎしたり 船楫もがも しをぢから ただこえくれば はくひのうみ あさなぎしたり ふなかぢもがも」の歌が「万葉集」に収録されています。

天平勝宝8年(757)に再び越中国から離れ能登国として独立した事から、再度、能登国の一之宮に復したと思われます。

「続日本書紀」によると神護景雲2年(768)に封戸20戸・田2町が支給されており、当時から格式の高い神社として認識されていたようです。

神階は延暦3年(784)3月16日に正三位、嘉承3年(850)6月2日に従二位、仁寿3年(853)8月15日に正二位勲一等、天安4年(859)1月27日に従一位勲一等に列格し、延喜式神名帳には加賀国、能登国唯一の名神大社として記載されています。

鎌倉時代に入ると幕府から庇護され、「能登国四郡公田田数目録」によると建保5年(1217)には当時の征夷大将軍である源実朝が御敷地として十一町一段余を寄進しています。

蒙古襲来の際には、当時の執権である北条貞時の懇願により、正応6年(1293)に蒙古降伏の祈願が行われ、御剣一腰、神馬一疋が寄進されています。

南北朝時代には後醍醐天皇の帰依を受け、建武年間(1334〜1335年)に社殿が大破した際には、勅使が派遣され、社殿が修造されています。

室町時代には能登国守護職畠山家が庇護し、明応8年(1499)には畠山義元が、別当の薬師院の知行を安堵し、永禄5年(1562)には畠山義綱が社殿を造営、永禄12年(1569)には摂社の若宮神社を再建しています。

戦国時代に能登国が上杉領となり、重臣の吉江信景が能登の石動山城に在番として派遣されると、天正5年(1577)には当社の社家と寺家に対して知行を安堵しています。

当地が織田領となり菅屋長頼が北陸方面政務官として能登・越中など北陸の政務を担当するようになると、天正8年(1580)には羽咋郡内の旧土肥親真領を氣多大社の社領として安堵しています。

前田利家が七尾城の城主となると篤く庇護し、天正10年(1582)には300俵を寄進、天正12年(1584)には社殿を造営しています。

天正18年(1560)に発生した小田原の役の際には、利家の正室である芳春院まつが戦勝と安全を祈願しています。

江戸時代に入ると、加賀藩主となった前田家が庇護し、慶長17年(1612)には初代藩主前田利長の病気平癒の祈願が行われ、講堂が造営されています。

慶安3年(1650)には2代藩主前田利常が、太刀二振を寄進、延宝8年(1680)には4代藩主前田綱利が多くの堂舎、社殿を造営しています。

明治時代初頭に発令された神仏分離令により、仏教色の強い鐘楼と護摩堂、本地仏で講堂に安置されていた木造阿弥陀如来坐像は隣接する旧別当寺院である正覚院に遷され、講堂と読経所は売却されています。

明治4年(1871)には国幣中社に列格し、大正4年(1915)には国幣大社に昇格しています。

氣多大社には歴史的建築物が多く、本殿と拝殿、神門、摂社白山神社本殿、摂社若宮神社本殿は国指定重要文化財、神庫と随身門は石川県指定文化財にそれぞれ指定されています。

毎年12月16日に開催される鵜祭は祭神の大己貴命が鹿島郡の神門島に降り立った際、当地の地主神だった御門主比古神が大己貴命に鵜を献上したのが起源とする祭りで、貴重な事から名称「気多の鵜祭の習俗」として国指定重要有形民俗文化財に指定されています。

又、境内背後の「入らずの森」は、神域の為、大晦日の奥宮例祭を催行する宮司ら神職以外は立ち入りは禁止されている事から、多種多様な古木大木が残され貴重な事から国指定天然記念物に指定されています。

氣多大社(能登國一宮):関係動画

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