金澤神社

  全国の歴史的(遺跡・遺構・遺物・建造物)>金澤神社

金澤神社
金澤神社
金澤神社
金澤神社
金澤神社
金澤神社
名 称 ・金澤神社
読み方 ・かなざわじんじゃ
祭 神 ・菅原道真
場 所 ・石川県金沢市兼六町
備 考
金澤神社:由来・歴史・概要
・金澤神社は寛政6年(1794)に加賀藩10代藩主前田治脩が藩校である明倫堂を開校した際に、菅原道真の御霊を勧請し、その鎮守社として創建したのが始まりとされます。

前田家の出自は不詳ですが、江戸時代に編纂された前田家系図によると、遠祖を意美豆努命とし、その後裔が出雲国造となり、その一族である野見宿禰から土師連が発生し、菅原道真と続いています。

菅原道真の長男である菅原高視の五世後裔の菅原知頼が美作守として美作国苫田郡戸川を本貫とした事から美作菅原氏の祖となっています。

さらに、美作菅原氏の一族とされる原田式部丞佐広が嘉吉元年(1441)に尾張国海東郡下一色に下向し、その後裔が美濃国安八郡前田村を本貫とする前田家の娘婿として入ったとされます。

前田蔵人利隆の代に本家の前田家から分家し、尾張国海東郡荒子村に移り住んだとされ、利隆の孫が加賀藩の藩祖となる前田利家となります。

この事から、加賀前田家は菅原朝臣を姓に、梅鉢を家紋とし、遠祖である菅原道真を信仰の対象としていました。

菅原道真は学問の神でもある為、藩校である明倫堂の鎮守社で、菅原道真を祀る事は必然とも言えます。

明倫堂は兼六園の南西部の梅林の中に設けられ、加賀藩の年寄奥村宗家10代である奥村河内守尚寛や前田大炊が学校方惣奉行として造営に当たっています。

文政5年(1822)に11代藩主前田斉広が、隠居所となる竹沢御殿を兼六園内に造営する事となり、明倫堂は仙石町に遷る事となりましたが、当社は引き続き竹沢御殿の鎮守として当地に留まりました。

社号は竹沢御殿御鎮守天満宮に改められ、白蛇竜神と琴平大神、白阿紫稲荷大明神が合祀された事で、学業成就だけでなく、災難除け、交通安全、商売繁盛に御利益があるとして信仰されました。

歴代藩主も兼六園を訪れた際には、参拝に訪れ、領内平癒を祈願したと伝えられています。

明治4年(1871)に施行された廃藩置県により加賀藩が廃藩になると、金沢城も廃城となり、当社も外護者を失っています。

明治5年(1872)に村社に列格し、明治7年(1874)に社号を金澤神社に改め、郷社に昇格しています。

又、藩政時代には、当社が藩主の別邸が置かれた兼六園内にあった事から一般庶民の参拝が禁止され、例祭である4月25日と9月25日に城下の婦女子に限定されていましたが、明治7年(1874)に兼六園が一般公開されるようになった事に伴い、当社の参拝も出来るようになっています。

白阿紫稲荷大明神は旧藩主前田家が東京に引っ越した際、東京の邸宅内に遷座されましたが、その後、旧藩士達が強く懇願した事から、再度当社に遷座しています。

金澤神社本殿は寛政6年(1794)に造営された建物で、大型流造、銅板葺き、正面一間向拝付、造形の規範になっているものとの登録基準を満たしている事から、国登録有形文化財に登録されています。

金澤神社拝殿は江戸時代末期に造営された建物で、木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、妻入、正面1間向拝付、外壁は真壁造り、木部弁柄色仕上げ、三方縁側高欄付、建築面積40u。

内部の天井は格天井で、動物や神獣を描いた36枚の天井絵、造形の規範になっているものとの登録基準を満たしている事から、国登録有形文化財に登録されています。

境内にある金城霊澤は、昔、現在の金沢市南部の山科出身の藤五郎が、ここから湧き出た清水で、掘り出した山芋を洗ったところ、沢には山芋に付いていた砂金が溜まった事から「金洗いの沢」と呼ばれ、「金沢」の地名の由来になったと伝えられています。

文政2年(1819)に11代藩主前田斉広は泉の周囲に丸い石の井戸胴を造り、宝形造、桟瓦葺きの東屋を設けて、現在見られる形となっています。

金澤神社の敷地内にある放生池の畔にある「いぼとり石」は、元々能登の七尾にあった「いぼ池」の畔にありましたが、前田斉広の正室である真龍院が天保9年(1838)に江戸から兼六園の成巽閣に移り住んだ際に、取り寄せたもので、イボをこするとイボが取れると信仰されています。

金澤神社:関係動画

金澤神社:付近地図
MapFanで大きな地図を見る

石川県の鳥居・探勝のリンク
東山菅原神社小坂神社尾山神社金澤神社尾崎神社安宅住吉神社金劔宮(白山七社)
倶利迦羅不動寺氣多大社
※リンクは自由ですが、文章や画像のコピーは禁止しています。何かありましたらメールしてください。
プライバシーポリシーはこちらです。