正眼院(小諸市) |
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正眼院 |
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名 称 | ・正眼院の山門 |
読み方 | ・しょうげんいんのさんもん |
場 所 | ・長野県小諸市八満 |
建築年 | ・江戸時代 |
種 類 | ・薬医門 |
形 状 | ・切妻、桟瓦葺き、一間一戸 |
文化財 | ・− |
備 考 |
正眼院:由来・歴史・概要
・正眼院は平安時代後期に後一条天皇の勅願により、名仏師として知られた定朝が制作した拈華微笑の釈迦牟尼佛を本尊として奉斎した曹洞宗の寺院です。
当初は天台宗の寺院で、その後一時臨済宗に転じましたが明応3年(1494)に平原城主依田全真が天英祥貞禅師を招き中興した際曹洞宗に改宗しています。 天英祥貞禅師は播磨出身の室町時代の曹洞宗天真派の高僧で、京都の建仁寺で出家すると南都で具足戒を受けその後、曹洞宗に転じ「無門関抄」を筆した事でも知られています。 文明12年(1480)に傑伝禅長の法を受け継ぎ、同年に上野後閑(安中)長源寺三世に就任、文明15年(1483)には龍雲寺を開山し、明応2年(1493)にみょう笑寺を中興開山しています。 依田全真は元々は上野国岩鼻城の城主で村上義清を通じて当地に遷ったとされる事から岩鼻城の城主時代から天英祥貞禅師と関係があったかも知れません。 天文18年(1549)に平原城に武田信玄(晴信)が侵攻し落城、正眼院は依田方に与したと思われ、攻撃の対象となりその兵火により大きな被害を受けています。 その後、依田全真は武田信玄によって信濃国の本領を失った村上義清に最後まで従い、97歳まで村上家に仕えた忠義の人だったようです。 江戸時代に入ると歴代小諸藩主から庇護され、特に二十三世素広大船和尚は藩主牧野公と度々囲碁をする仲だったと伝えられています。 明治4年(1871)に廃藩置県に施行され小諸藩が廃藩、それに伴い小諸城が廃城になると小諸城の黒門が正眼院に払い下げられ、山門として移築されました。 現在の本堂は宝暦11年(1761)に再建された建物で木造平屋建て、寄棟、平入、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、唐破風の玄関屋根付。 長野県:歴史的建造物・再生リスト
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