利久堂酒井家住宅(長野市)

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利久堂酒井家住宅
利久堂酒井家住宅の画像
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名 称 ・利久堂酒井家住宅
読み方 ・りきゅうどうさかいけじゅうたく
場 所 ・長野県長野市川合新田
文化財 ・国登録有形文化財
備 考
利久堂酒井家住宅:由来・歴史・概要
・利久堂酒井家住宅主屋は明治20年(1887)頃に医院を経営していた北村家の主屋として建てられ、昭和57年(1975)に酒井家が買い取った建物で、木造平屋建て一部2階建て、切妻、越屋根付、桟瓦葺き、平入、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、式台付玄関、むくり付玄関屋根、建築面積283u。

元々は病院として利用されていた事から診療室や待合等医療と関係がある部屋が組み込まれる独特な間取りとなっています。

北村家は元々は武士だった家柄で、戦国時代の当主である柴田門之丞は上杉謙信に従い、川中島の戦いの際に当地まで従軍したと伝えられています。

天正6年(1578)に謙信が死去すると、その後継を巡り謙信の養子だった上杉景勝と上杉景虎が激しく対立し所謂「御館の乱」が発生、柴田門之丞は上杉景虎に与したものの敗北した為粛清を恐れ信濃国高井郡錦内村に落ち延びました。

その後、帰農し川合村の一部を開発した事で川合新田村を立村、天正10年(1582)に当地が上杉景勝領になると素性を隠すためか?柴田姓から北村姓に改姓しています。江戸時代に入っていも北村家の開発は続き、享保年間(1716〜1736年)頃に現在地に集落(村の中心部)が確立しています。

その後、川合新田村の名主を歴任したものの、6代目の北村祐雪が医療を志した為に名主を辞任する事になったとされます。

主屋は「造形の規範となっているもの」との登録基準を満たしている事から平成13年(2001)に国登録有形文化財に登録されています。

利久堂酒井家住宅長屋門は明治20年(1887)頃に建てられた建物で、木造平屋建て一部2階建て、切妻、桟瓦葺き、桁行約25m、外壁は大壁造り、面積169u。

長屋門は「国土の歴史的景観に寄与しているもの」との登録基準を満たしている事から平成13年(2001)に国登録有形文化財に登録されています。

利久堂酒井家住宅庭塀は明治20年(1887)頃に建てられたもので土塀、桟瓦葺き、玄関側は大壁造り白漆喰仕上げ、座敷庭側は真壁造り白漆喰仕上げ、中門付、延長18m。

庭塀は「国土の歴史的景観に寄与しているもの」との登録基準を満たしている事から平成13年(2001)に国登録有形文化財に登録されています。

利久堂酒井家住宅味噌蔵は明治20年(1887)頃に建てられた建物で、土蔵造り2階建て、切妻、桟瓦葺き、平入、桁行2間、梁間2間半、内部は1階が土間造りの味噌の貯蔵庫、2階は板張りの倉庫として利用、建築面積14u。

味噌蔵は「造形の規範となっているもの」との登録基準を満たしている事から平成13年(2001)に国登録有形文化財に登録されています。

利久堂酒井家住宅土蔵は明治20年(1887)頃に建てられた建物で、土蔵造り2階建て、切妻、桟瓦葺き、平入、桁行5間半、梁間2間半、内部は1階が土間、2階が板敷で道具の所蔵に利用、建築面積79u。

土蔵は「再現することが容易でないもの」との登録基準を満たしている事から平成13年(2001)に国登録有形文化財に登録されています。

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