菅生神社の鳥居

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菅生神社
菅生神社
菅生神社
菅生神社
菅生神社
名 称 ・菅生神社の鳥居
読み方 ・すごうじんじゃのとりい
祭 神 ・天照皇大神、豊受姫命、須佐之男命、菅原道真公、徳川家康公
場 所 ・愛知県岡崎市康生町
建築年 ・寛永15年=1638年
種 類 ・明神鳥居
材 質 ・石製(花崗岩・青石)
形 状 ・高さ2.71m、幅1.815m、柱径22.5cm
製作者 ・−
奉納者 ・岡崎城主本多伊勢守忠利
文化財 ・岡崎市指定文化財
評 価 ★★★★★★★☆☆☆
感 想 ・シンプルな明神鳥居ですが、建立の経緯や銘が明確なので歴史的な価値が高く評価されています。
備 考
菅生神社:由来・歴史・概要
・左柱には「泰造立牛頭天王石之鳥居/寛永15戌寅年仲冬吉日良辰仰翼」、右柱には「武明長興此柱礎斉堅固矣/従五位下本多伊勢守藤原忠利敬白」の銘が刻まれています。

菅生神社は景行天皇の御代に日本武尊が菅生河畔から矢を放ち、神風に導かれ当地に突き刺さった事から聖地あると悟り、伊勢神宮から御霊を勧請し開創したと伝えられています。

神亀2年には神託が下り山城国より稲荷大明神を観請、さらに永正14年に菅生川が氾濫し上流の額田郡宮崎に鎮座していた牛頭天王が流され当地に漂着した事から神意と悟り、永正15年に中山庄土村の天野法掃部助正家と麻生村の天野彌九郎隆正が社殿が造営し菅生天王社と号しました。

その後は歴代岡崎城主から崇敬庇護され、大永3年には松平信貞が境内に末社となる十二柱を勧請、永禄9年には徳川家康が社殿を再建しています。

天正18年に徳川家は関東に移封になった為、新たに豊臣系大名である田中吉政が入封、天正19年に吉政が岡崎城を拡張整備した際に社領を安堵せず、社地も削られ衰微しました。

慶長5年に発生した関ヶ原合戦の結果、東軍に与し大功を挙げた田中吉政は柳川藩32万石で移封となり、代わって岡崎城の代官となった伊奈備前守忠次から社領2石6斗6升が安堵されています。

慶長15年に菅生川の大洪水により社殿が流され、亀井戸稲荷社の境内に漂着した事から稲荷社と合祀する事になり、その後は、岡崎城内殿橋東側の地で再興が計られています。

元和8年には磐城平藩の藩主内藤佐馬助政長が祖先が三河国に在した時代に産土神として帰依していた事から社殿を造営しています。

その後は歴代岡崎藩主から庇護を受け、寛永15年に本多忠利が本殿を修復し石鳥居を寄進、宝暦3年に水野織部正忠任が本殿を修復、明和5年に松平周防守康福が社殿を修復、寛政11年には本多中務大輔忠顕が覆屋を造営しています。

明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され、社号を菅生神社に改め、明治5年に村社に列格しています。

明治9年に岡崎公園内の龍城神社境内に遷座し、明治23年に 殿橋東側に再遷座、明治34年に現在地に境内を遷しています。

祭神は天照皇大神、豊受姫命、須佐之男命、菅原道真公、徳川家康公。

菅生神社:付近地図
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