玉田神社の鳥居

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玉田神社
玉田神社
玉田神社
玉田神社
玉田神社
玉田神社
玉田神社
名 称 ・玉田神社の鳥居
読み方 ・たまだじんじゃのとりい
祭 神 ・武甕槌神、譽田天皇、天兒屋根命、武内宿禰命
場 所 ・京都府久世郡久御山町森宮東
建築年 ・一の鳥居:文化年間(1804〜1817年)
・二の鳥居:享保年間(1716〜1735年)
種 類 ・一の鳥居:明神鳥居
・二の鳥居:明神鳥居
材 質 ・一の鳥居:石造
・二の鳥居:石造
形 状 ・一の鳥居:間口3.7m、高さ4.3m
・二の鳥居:間口3.4m、高さ4.1m
製作者 ・−
奉納者 ・−
文化財 ・国登録有形文化財
評 価 ★★★★★★☆☆☆☆
感 想 ・−
備 考
玉田神社:由来・歴史・概要
・玉田神社は仁徳天皇の御代に木津川から当地に流れ着いた御神体を奉斎したのが始まりと伝えられています。

当初は春日四神が祀られていましたが、和銅3年(710)に元明天皇の勅願により平城京の鬼門鎮守とした際、八幡三柱と武内宿禰の御霊が勧請合祀され八社大明神とも呼ばれました。

伝承によると聖武天皇の御代に勅命により橘諸兄が当地にあったとされる朝廷直轄の牧場から一頭の馬を献上すると、天皇から希に見る名馬であるとして讃えられ、左大臣に昇進したそうです。

ある時、この名馬が3日間鳴き続きた為、奇異に感じると御所の内裏の外で火災が発生しました。

数日後、再び3日間鳴き続けた後、前回を上回る火災により内裏が業火に包まれると、名馬は繋がれていた轡を食いちぎり、炎の中に飛び込みました。

その刹那、何故か業火が鎮火し何事もなかったかのように名馬は自分の御厩舎に帰還しました。

この話を聞いた聖武天皇はこの名馬は姿形だけでなく御所を火災から守った神馬である事から、玉田大明神が召させ給うたのだろうと悟り「火鎮」と名付け、橘諸兄に命じて丁重に元の牧場に送り届けられ、死後は篤く埋葬され馬見塚が設けられたと伝えられています。

中世は歴代領主から崇敬庇護され天正14年(1586)には御牧城の城主御牧勘兵衛尉尚秀が願主となり社殿が再建されています。

当地は以前、宇治川と桂川の合流点付近にあった丹波津だったとも云われ、上記の棟札には丹波津宮と記されているそうです。

江戸時代には淀藩主から庇護され寛永元年(1624)には板倉伊賀守高勝と御牧八郷氏子惣中の協力により社殿が造営されています。

古くから神仏集合し別当寺院である法楽院が祭祀を司ってきましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され村社に列格しています。

現在の本殿は寛永元年に造営された八間社の社殿を文化2年(1805)に四間社流造に縮小改修された建物で、檜皮葺き、正面1間向拝付、三方縁側高欄付、左右脇障子付、外壁は真壁造り板張り、建築面積34u。

玉田神社末社市杵社は江戸時代中期に建てられた建物で、一間社流造、こけら葺き、三方縁側高欄付、左右脇障子付、建築面積1.0u。

玉田神社本殿、末社市杵社、一の鳥居、二の鳥居は貴重な事から国登録有形文化財に登録されています。

玉田神社:付近地図
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