日永の追分の鳥居

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日永の追分
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日永の追分
名 称 ・日永の追分の鳥居
読み方 ・ひながのおいわけのとりい
場 所 ・三重県四日市市追分三丁目
建築年 ・平成28年=2016年
種 類 ・神明鳥居
材 質 ・木製
文化財 ・三重県指定史跡
感 想 ・鳥居はシンプルな神明鳥居の素木で、もし街道一杯に建てられていたとしたら、当時ももっと大きかったような印象を受けます。現在は人が通る訳では無い為、移設や建て方、管理し易いサイズになったのかも知れません。
備 考
日永の追分:由来・歴史・概要
・鳥居の初代は安永3年に一志郡須ヶ瀬村出身の伊勢商人渡辺六兵衛が伊勢神宮の遥拝の為に造立したのが始まりとされ、何度も建て替えが行われ、現在は平成28年に伊雑宮の鳥居を移建して建替えられています。

桑名の七里の渡しに建てられた鳥居が一の鳥居と呼ばれるているのに対し、日永の追分のものは二の鳥居と呼ばれました。

日永の追分は東海道と伊勢街道の分岐点で、現在は日永神社の境内に移転されている明暦2年に川原町の仏性院の開基専心によって建立された旧道標には「京」「山田」「南無阿弥陀仏 恵心」と刻まれ、嘉永2年に建立された道標には「左いせ参宮道」「右京大坂道」「すぐ江戸道」と刻まれています。

当地(日永)は東海道の宿場町である四日市宿と石薬師宿の中間に位置し、正式な宿場町では無かった為、本陣や脇本陣等の施設は設けられなかったものの、旅人や運送業者の便宜を図る為に間の宿として茶屋や簡易な宿泊所が軒を連ねていました。

その他にも安永3年に建立された常夜燈や手水等があります。

現在は道路の拡幅工事や宅地化等によって街道が鳥居を潜る事が困難になった為、鳥居の周囲を公園として整備、保存されています。

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