沼森鷲神社の鳥居

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沼森鷲神社
沼森鷲神社の鳥居
名 称 ・沼森鷲神社の鳥居
読み方 ・ぬまもりわしじんじゃのとりい
祭 神 ・天日鷲尊他、22柱
場 所 ・茨城県結城郡八千代町大字沼森
建築年 ・元禄14年=1701年
種 類 ・明神鳥居
材 質 ・石製(御影石:花崗岩)
形 状 ・高さ3.59m、幅4.7m
製作者 ・−
奉納者 ・高橋出羽掾(神主)
文化財 ・八千代町指定文化財
評 価 ★★★★★★★☆☆☆
感 想 ・笠木と島木は緩やかな反りで、中央で繋いでいます。柱はやや太目で寸胴な印象があります。右側の貫がやや傾いているのが気になる所です。
備 考
沼森鷲神社:由来・歴史・概要
・沼森鷲神社は応永16年に源家綱が当地の沼と森林を開拓した際、天日鷲命の御霊を勧請し開創されたと伝わる神社です。

一方、南北朝時代に北朝方の高師冬が当地に鷲宮砦が築き、「鷲宮」は当社の事と考えられる為、南北朝時代以前から鎮座していたか、砦の鎮守社として勧請された可能性があります。

興国元年に高師冬は鷲宮砦を拠点として南朝方の駒城を落城させましたが、その後、南朝方の攻勢にあい、駒城が奪還され、さらには鷲宮砦も奪取されています。戦国時代にも鷲宮砦は引き続き戦略拠点の一つになっていたようで、元亀3年には北條氏照から攻撃を受け落城、その後廃城になったと思われます。当社も大きな被害を受けたと思われますが詳細は不詳。

源家綱については不詳ですが、源家(相模源氏)流下野中村氏(下野源氏)の祖の中村朝定の曾孫、朝綱の孫、頼長の子である柳林家綱の可能性があります。

つまり、柳林氏は下野源氏の庶流で、家綱は鎌倉時代の人物となる事から、実際は鷲神社は鎌倉時代に家綱が開創し、南北朝動乱時の鷲宮砦の攻防戦で大きな被害を受け、応永16年に家綱の後裔や子孫が再興したと考えられます(私論)。因みには「柳林」姓は茨城県が電話帳掲載の世帯数全国一位となっています。

鳥居にの左柱は「干時元禄十有四辛巳天十二月十八日、神主高橋出羽掾」、右の柱には「奉造立鷲大明神石柱華表一基、為郷中□全諸家満足□」、扁額には「天保九戌正月高橋相模正高橋養朴」の銘があり、鳥居の造立年や扁額の奉納年、奉納社者等が明確で資料的な価値が高い遺構と評価されています(扁額「鷲宮」の揮毫者は土浦に境内を構えている二十代住職大寅)。

拝殿は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、桁行4間。本殿は一間社流造、桟瓦葺き、正面1間向拝付、外壁は真壁造り下張り朱塗り、三方浜縁、高欄、脇障子、浜床付き。

祭神は天日鷲尊他、22柱

参考:鳥居・探勝:茨城県編

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茨城の鳥居・探勝のリンク
沼森鷲神社近津神社(中宮)
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