摩訶耶寺

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摩訶耶寺

摩訶耶寺:画像
摩訶耶寺:山門・高麗門 摩訶耶寺:本堂 摩訶耶寺:本堂・旧棟瓦 摩訶耶寺:近藤用行公夫婦御廟 摩訶耶寺:境内・石仏
名 称 ・摩訶耶寺
読み方 ・まかやじ
宗 派 ・高野山真言宗
山 号 ・大乗山
本 尊 ・正観世音菩薩
場 所 ・静岡県浜松市北区三ヶ日町摩訶耶
備 考
摩訶耶寺:由来・歴史・概要
・摩訶耶寺は神亀3年に行基菩薩によって開創されたと伝わる高野山真言宗の寺院です。

伝承によると、当寺が奉斎している厄除正観世音菩薩は行基菩薩が1本の霊木から彫り出した3躯の内の1躯で、残り2躯は袋井市の法多山尊永寺と浜松市の祝田山善明寺の観音像とされ三姉妹観音と呼ばれているそうです。

当初は新達寺と号し富幕山に境内を構えていましたが、平安時代に入った正暦年間に千頭ヶ峯の観音岩に境内を遷し、寺号を「真萱寺」に改めています。

平安時代末期に一条天皇の勅願寺となり現在地に遷ると「摩訶耶寺」の字があてられたと推定されています。

天正元年、甲斐国守護職の武田信玄が三河・遠江領に侵攻し三方原の合戦で徳川家康に完勝すると当寺付近まで戦禍は広がり、その兵火により大きな被害を受けています。

その後、再興され豊臣秀吉、徳川家康が寺領を安堵しています。

寛永元年に近藤用行が遠江国大谷領2000石を分知され寄合旗本として分家すると当寺を菩提寺として篤く帰依し、本堂の再建等境内の整備に尽力しています。

山門は延宝9年に用行の跡を継いだ子供の近藤用高が野地城の旧城門を移築、境内には近藤用行公夫婦御廟が設けられています。

寺宝が多く、木造千手観音立像(制作年:藤原時代初期)、木造不動明王立像(制作年:平安時代末期)が国指定重要文化財、阿弥陀三尊像(制作年:平安時代末期)が静岡県指定文化財に指定されています。

庭園は平安時代末期から鎌倉時代初期に作庭された池泉鑑賞式蓬莱庭園で東日本随一の名園とも評されています。又、大福寺、方広寺、龍譚寺、宝林寺と共に湖北五山に数えられています。

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