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和樂備神社:由来・歴史・概要
・和樂備神社が何時頃開創されたのかは判りませんが、社伝によると、室町時代に当地に配された渋川氏が居城となる蕨城を築いた際、城の鎮守社として八幡神を勧請したのが始まりと伝えられています。
渋川氏は清和源氏義国流で足利将軍家の一門、室町時代には肥前国、備前国、備中国、安芸国、豊前国、摂津国等の守護職を歴任し、5代当主渋川直頼の「譲状写」によると観応3年(1352)に「武蔵国蕨郷上下」が直頼から嫡子金王丸に譲られた旨が記されています。
6代当主渋川義行の代に蕨城が築かれたとされる事から、渋川氏は源氏の血筋の為、義行は氏神である八幡神を信仰し、当社を創建したと思われます。
渋川義行の後は満頼系と満行系の二流に分かれ、当渋川氏は満頼系とされ、満頼の子供である渋川義俊の時に少弐満貞との合戦に敗れ衰微しています。
跡を継いだ渋川義鏡は「鎌倉大草紙」によると曽祖父義行が武蔵国蕨郷(現在の埼玉県蕨市周辺)を所領していた関係で、室町幕府から関東下向を命じられた為、当時の本拠地だった九州を離れています。
義鏡は、足利将軍家の御一家に格付けられたものの、扇谷上杉家との政争に敗れ失脚、義鏡の跡を継いだ渋川義堯は蕨城を本拠地として当地を支配し、対立していた古河公坊に対抗しています。
永禄10年(1567)、義堯の跡を継いだ渋川義基は三船山合戦で小田原北条氏方として参陣したものの、里見氏に敗れ討死、一族も四散した為、当社は外護者を失っています。
一方、「世鏡伝記題臨書」によると永正8年(1511)に鎌倉出身の成田隼人正が当社を奉斎したと記されています。
又、現在本殿に安置されている木造僧形八幡立像の台座に天正11年(1583)の銘がある事から蕨城が廃城になった後も奉斎が続いていた事が窺えます。
記録にはありませんが、江戸時代に入ると蕨城の城址が徳川将軍家の鷹狩陽の御殿として利用され、徳川家も形式上は源氏一族を自称していた為、当社にも何らかな恩恵があったかもしれません。
蕨城の旧城下町は江戸時代初期に中山道が開削されると宿場町として整備され、当社は「上の宮」と呼ばれるようになり、「中の宮」(氷川社)、「下の宮」(氷川社)と共に蕨宿三鎮守として住民達から信仰されました。
古くから神仏習合し三学院末成就院が別当寺院として祭祀を司ってきましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され、明治6年(1873)に村社に列格しています。
明治44年(1911)に近隣の鎮守等18社が合祀され、社号を「和樂備神社」に改め、社殿の造営や合祀した神社の社殿、鳥居、敷石の移転など境内の整備が随時行われ、大正時代末期頃に概ね竣工しています。
木造八幡騎馬像は和楽備神社の御神体で、寄木造り、彩色仕上げ、像姿は岩座上の白馬に騎乗する束帯姿、造形的にも優れ貴重な事から蕨市指定文化財に指定されています。
木造僧形八幡立像は和楽備神社の御神体で、天正11年(1583)制作、彩色仕上げ、像姿は着衣の上に袈裟、頭部は剃髪、蕨城との関係が偲ばれ貴重な事から蕨市指定文化財に指定されています。
水盤は江戸時代初期に江戸上野寛永寺に奉納されていたものと伝われ、安山岩製、四隅入隅式、貴重な事から蕨市指定文化財に指定されています。
宝篋印塔は享和元年(1801)に蕨宿の町田氏が敷石供養の為、和楽備神社の別当寺院だった三学院末成就院に奉納し、神仏分離と廃仏毀釈運動で明治4年(1871)に成就院が廃寺となり現在地に遷されたもので、貴重な事から蕨市指定文化財に指定されています。
天神社本殿は江戸時代前期に建てられたと推定される建物で、一間社流造り、こけら葺き形銅版葺き、貴重な事から蕨市指定文化財に指定されています。
稲荷社本殿は江戸時代中期に和楽備神社(八幡社)の本殿として造営され、末社稲荷社本殿として現在地に移築された建物で、一間社流造り、こけら葺き形銅版葺き、貴重な事から蕨市指定文化財に指定されています。
和樂備神社(埼玉県蕨市中央4丁目):動画
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