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妙顕寺:由来・歴史・概要
・文永8年(1271)、日蓮上人は「庵室に凶徒を集め弓箭・兵仗を貯えている」との嫌疑を受け、裁定の結果「防衛体制強化を行う幕府に異を唱える悪党」として佐渡島への流罪が決定しました。
日蓮上人が佐渡島に赴く為、武蔵国新座郡新座村を通過した際、当地の領主である隅田五郎時光の奥方が難産により命の危険に晒されていました。
時光は藁にも縋る気持ちで日蓮上人に安産祈願を依頼し、奥方が苦しんでいる家に招こうとしました。
しかし、日蓮上人は罪人として佐渡島に搬送される途中だった事から、その願いは叶わず、代わりに日蓮は安産に御利益があるとされる護符を時光に与えました。
時光に護符を奥方に翳し、一心不乱に安産を祈願すると、元気な男の子を出産し母子ともに無事だった事から、日蓮を篤く帰依するようになりました。
時光は男の子を徳丸と名付け、何時しか日蓮の教えを伝える寺院を建立したいと願うようになったそうです。
文永11年(1274)、日蓮は幕府から許され、甲斐国波木井郷の地頭、南部六郎実長の招きにより、甲斐国身延山の西谷の地に草庵を構え、日蓮宗の布教の拠点としました。
弘安3年(1280)、時光は徳丸を連れ立って身延山の日蓮を訪ね出家すると、法名として時光は「日徳」、徳丸は「日堅」の名が与えられ厳しい修行を行いました。
弘安4年(1281)、日徳、日堅父子が新倉に戻って当寺を創建すると、日蓮の高弟で六老僧に数えられた日向上人を招いて開山、日蓮によって「長誓山安立院妙顕寺」と名付けられ、日徳は第二世、日堅は第三世の住職を担っています。
その後、当寺は開山に至る由緒から子安・安産の霊場として広く信仰されるようになりました。
江戸時代初期には日蓮宗を帰依していた徳川家康の側室で徳川頼宣・頼房の生母だった「お万の方」の庇護を受けました。
徳川頼宣は徳川御三家の一つである紀伊徳川家、徳川頼房は同じく水戸徳川家の祖になった事から、寺領18石安堵の朱印状を賜っています。
子安曼荼羅本尊は隅田五郎時光と徳丸が見延山で出家した際、日蓮上人から下賜された日蓮自筆の題目曼荼羅と伝わるもので、縦92.7cm、横49.1cm、貴重な事から埼玉県指定文化財に指定されています。
日向記は弘安元年(1278)の3月から5月に日蓮上人による法華経の説法の要点を弟子である日向が筆録したと伝わるもので、日蓮の教えを伝える遺構として、貴重な事から埼玉県指定文化財に指定されています。
妙顕寺は子安・安産に御利益がある守り本尊として信仰を広めた為、数多くの絵馬が奉納され、貴重な事から名称「妙顕寺絵馬群」として戸田市指定有形民俗文化財に指定されています。
三十六歌仙絵額は元禄8年(1695)5月に紀州藩家老で書画にも精通していた水野志摩守重孟が奉納したもので、戸田市内で年代が明確なものとしては最古の絵馬として貴重な事から戸田市指定文化財に指定されています。
慶長の板碑は慶長3年(1598)に建立されたもので、緑泥片岩製、高さ144cm、下幅39cm、身部中央に「南無妙法蓮華経」・「南無釈迦牟尼佛」・「南無多寶如来」の三尊と「南無日蓮大聖人」、さらに願文が刻まれ、年号が明確な武蔵型板碑としては下限年に当たり、貴重な事から戸田市指定文化財に指定されています。
妙顕寺(埼玉県戸田市新曽):動画
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