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玉敷神社:由来・歴史・概要
・玉敷神社は成務天皇6年(13)に武蔵国造兄多毛比命、又は文武天皇御代の大宝3年(703)に東山道鎮撫使多治比真人三宅麿が開創したと伝えられています。
兄多毛比命は武蔵国東部が領域とする无邪志国(後の武蔵国)の国造の家祖とされ国造本紀の「出雲臣祖二井之宇迦諸忍之神狭」の10世孫に当たり初代无邪志国造に任命されたと記されています。
多治比真人三宅麿は飛鳥時代後期から奈良時代前期にかけての貴族で大宝3年(703)に東山道巡察使に任命され当地に下向した際に開創したとされます。
玉敷神社は格式が高く延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳には式内社として記載されています。
天正2年(1574)に上杉謙信の関東出兵の兵火により社殿が焼失し、神宝や古文書等も失われこれ以前の由緒が不詳となっています。
社殿焼失後は衰微していましたが、江戸時代に入ると旧社地である正能村(現在の埼玉県加須市根古屋)から騎西城の大手門付近の根古屋村(現在の埼玉県加須市騎西根古屋)に再興されています。
その後、度々騎西城の城下で火災が発生し、類焼が危惧された事から元和6年(1620)頃に騎西藩士が武蔵国騎西藩の第2代藩主大久保従四位下加賀守忠職に具申し現在地(宮目神社旧境内地)に遷座しています。
忠職は当社を篤く庇護し、寛永4年(1627)には社領7石を安堵し、社地周辺の神田と正能の龍花院西の古宮跡の二反二畝を寄進しています。
当時は「久伊豆大明神」と号し、旧埼玉郡(現在の南北両埼玉郡)の総鎮守、騎西領48ヶ村の氏神として信仰を広め「騎西の明神様」とも呼ばれました。
旧元荒川流域には当社から分霊が勧請され多くの「久伊豆社」が開創された事から玉敷神社はその惣社(本社)的な存在となっています。
宝永3年(1706)に社殿の再建が行われ、宗源宣旨により正一位の神階を受け「正一位久伊豆大明神 郡中大総社」と呼ばれるようになりました。
古文書には「享保四歳己亥三月太々御神楽執行有願主騎西町講中」と「享保一九年四月二日に永々太々神楽執行騎西領惣産子他領信心願主大勢助力初候也」との記述があり、少なくともこの頃には太々神楽が行われていた可能性があります。
古くから神仏習合していましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され明治5年(1875)に村社に列格し、大正13年(1924)に県社に昇格しています。
毎年2月1日に開催される初春祭、5月5日に開催される春季大祭、7月15日に開催される夏季大祭、12月1日に開催される例大祭に行われる神楽は貴重な事から平成20年(2008)に国指定重要無形民俗文化財に指定されています。
本殿は文化13年(1816)に造営された建物で三間社流造、銅板葺き、桁行3間、梁間2間、三方縁側高欄付、左右脇障子付、外壁は真壁造り板張り、幣殿には花頭窓が設けられ神仏習合時代の名残が見られます。
拝殿は明治31年(1898)に造営された建物で、木造平屋建て、入母屋、銅瓦棒葺き、平入、正面千鳥破風、正面1間軒唐破風向拝付。
神楽殿は天保7年(1836)に造営された建物で、木造平屋建て、正面入母屋、茅葺、三方吹き放し、背面寄棟、茅葺、外壁は真壁造り板張り、貴重な事から平成4年(1992)に加須市指定文化財に指定されています。
境内のフジは推定樹齢450年の「ノダフジ」の一種で幹周4.8m、枝張700u、当初は戸室の若山家にありましたが、昭和8年(1933)に玉敷神社の境内に移植、貴重な事から平成4年(1992)に埼玉県指定天然記念物に指定されています。
刺繍三十番神像は寛文年間(166〜1673年)に玉敷神社に奉納されたもので、主祭神である久伊豆大明神を中心に三十柱の神々が刺繍で表現、縦188.5cm、横100cm、貴重な事から平成30年(2018)に埼玉県指定文化財に指定されています。
その他に算額や神楽講の大絵馬、文書、銀杏が加須市指定文化財に指定されています。
玉敷神社(埼玉県加須市騎西):動画
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