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川口神社:由来・歴史・概要
・川口神社が何時頃開創されたのかは不詳ですが、社伝によると天慶年間(938〜947年)に当時足立郡司判官代だった武蔵武芝が武蔵国一宮である氷川神社から御霊を勧請し創建したと伝えられています。
鎌倉時代の中後期、後深草院二条という女性が実体験を綴ったという形式で書かれた「とはずがたり」や室町時代に成立したと推定される「義経記」には当地の事を「小河口」として記載されている事から、少なくとも中世には当地の鎮守だった可能性があります。
又、周辺には建久8年(1192)に開山したと伝わる善光寺や寛正元年(1460)に中興したと伝わる錫杖寺があり、中世の板碑も散見される事から当地の開発が進み当社もその信仰の一端を担い境内には暦応2年(1339)の板碑が残されています。
鎌倉と奥州をつないだ中世日本の最長の幹線道路「奥大道」も武蔵国足立郡平柳領辻村(現在の埼玉県川口市大字辻、川口市南鳩ヶ谷)を経路としており、当社の境内のすぐ近くを通過していた事もあり、当社にも多くの参拝者があったかも知れません。
当社に安置されている男神像は室町時代に制作されたと推定される木造一木造で、少なくとも室町時代には当社が存在していた事の傍証となっています。
江戸時代に入ると除地が定められ「氷川大明神」と呼ばれていました。
江戸時代中期、8代将軍徳川吉宗の命を受けた幕府勘定吟味役格の井沢弥惣兵衛為永は、見沼溜井の干拓を行う事となり小普請組杉島不一の養子となった杉島貞七郎保英(川口宿宇田川定盛の子供)が芝川落口の門樋工事を担当しました。
保英は工事の安全と完成を当社で祈願し、見事念願成就すると享保18年(1733)に神意に感謝し神鏡を寄進しています。
神鏡は直径30cm、厚さ0.5cm、「奉納・御寶前・武州川口町鎮守・杉島貞七郎花押」、「氷川大明神」、「享保十八年癸年九月吉祥日 中村因幡守作」の銘が刻まれ貴重な事から昭和52年(1977)に川口市指定文化財に指定されています。
古くから神仏習合し、元和4年(1618)以降は雨宝山大悲院延命寺が別当寺院として祭祀を司ってきましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され延命寺は廃寺に追い込まれています。
明治6年(1873)に村社に列格し、昭和8年(1933)に昭和の市制施行に伴い川口市の総鎮守となり、昭和10年(1935)には県社に昇格しています。
明治27年(1894)に天神社を合祀し、明治35年(1902)に第六天社と石神井社を境内に遷座、明治40年(1907)に周辺の稲荷神社(三社)を境内に鎮座していた杉山稲荷神社に合祀しています。
明治42年(1909)に金山社を合祀すると、社号を氷川社から「川口神社」に改めています。
現在の川口神社拝殿は昭和2年(1869)の火災で焼失後の昭和4年(1871)に再建された建物で、木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、正面千鳥破風、平入、桁行3間、正面1間唐破風向拝付、外壁は真壁造り板張り。
川口神社本殿は同じく昭和18年(1885)に再建された建物で、一間社流造、銅板葺き、外壁は真壁造り板張り。
川口神社神門は同じく昭和18年(1885)に再建された建物で、切妻、銅板葺き、桁行3間、梁間2間、八脚単層門、外壁は真壁造り板張り。
川口神社の境内社である八雲社の社殿は宝永4年(1707)に金山権現社の社殿として造営された建物で、一間社流造、銅板葺き、正面1間向拝付、外壁は真壁造り板張り、三方縁側高欄、左右脇障子付、棟梁は山城国出身の宮野平左衛門と同平七郎勝俊、貴重な事から平成20年に川口市指定文化財に指定されています。
川口神社(埼玉県川口市金山町):動画
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