箭弓稲荷神社

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箭弓稲荷神社
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場 所 ・埼玉県東松山市箭弓町2丁目
備 考
箭弓稲荷神社:由来・歴史・概要
・箭弓稲荷神社は和銅5年(712)に開創されたと伝わる神社です。

長元元年(1028)に下総国、上総国、常陸国に広大な所領を有していた平忠常が突如として安房国の国府に侵攻し、安房守だった平維忠を殺害する事件が発生しました。

この事態を収拾させる為、朝廷は平維時を上総介に任命し息子の平直方が忠常追討の任を受けました。

直方は持久戦に持ち込み忠常軍を追い込んだものの、戦略を理解出来なかった朝廷は直方を解任し、河内源氏の源頼信を甲斐守に任命し忠常追討を命じています。

忠常が武蔵国に侵攻すると、頼信は武蔵国比企郡松山野久ヶ原に本陣を構え、当社で戦勝祈願すると太刀一振、馬一匹を奉納しました。

戦勝を祈願する祈祷は早朝まで続けられ、日が昇り始めると白雲が立ち上がり白羽の矢に形を変え敵方の本陣めがけて飛んで行った事から、頼信は吉兆を悟り直ちに軍を編成し忠常軍に総攻撃を行いました。

激闘は三日三晩に及びましたが、忠常軍は直方軍との持久戦で既に疲弊していた事もあり、徐々に体力が削られ撤退すると降伏に応じています。

頼信は当社の神意に感謝し、社殿を新たに造営すると、この故事に倣い「野久稲荷大名神」から「箭弓稲荷大名神」に改めたと伝えられています。

中世に入ると歴代松山城主である上田氏や難波田氏から庇護されました。

天正18年(1590)に発生した小田原の役では小田原北条氏に属した上田憲定は小田原城に籠城、家臣である山田直安が松山城の守備を任されたものの、豊臣方の前田利家、上杉景勝軍の侵攻を受け落城し当社もその兵火により衰微しました。

元和3年(1617)に江戸幕府の重鎮で天台宗の高僧である天海大僧正が当社を訪れた際に再興され社殿が再建されています。

伝承によると久能山から徳川家康の御霊を安置させた神輿を日光に運ぶ為に随行した天海大僧正が当地を通過した際、突如として大雨が降り出した為、当社を守っていた主の屋敷に神輿を納めたそうです。

すると、弓箭を携えた翁が出現、「私は倉稲魂命に仕えるもので、あなた様が御守りする神輿の御先を祓い清めよう。」と告げ姿を消しました。

天海が主に当社の由緒を聞くと、先程の翁は箭弓稲荷大神の化身と悟り、社殿を造営すると別当寺院として福聚寺を創建、主を別当職に補任したと伝えられています。

江戸時代には武蔵国入間郡、比企郡等5千石を領した島田家から崇敬庇護され、享保3年(1718)には島田弾正により社殿が造営され、社地四町七反余を免除しています。

明和4年(1767)に当地が前橋藩領になると、藩主である松平大和守家から崇敬庇護され社地の免租、親筆の献額を奉納し、分霊を城内に勧請し篤く奉斎、天保6年(1835)には拝殿を造営しています。

その後は社運も隆盛し特に衣食住、商売繁昌、開運に御利益がある神社として信仰され遠方からも参拝者が訪れるようになったとされます。

明治時代初頭に発令された神仏分離令を経て、明治29年(1896)に郷社に列格し大正12年(1923)には県社に昇格しています。

当社に掲げている「呉服店」「馬上の中国武人」「関羽と張飛」「俵藤太秀郷」「牛若丸と弁慶」「予譲の仇討」「文人机に寄り」「武人と騎馬武者」の絵馬8点は貴重な事から東村山市指定文化財に指定されています。

本殿は享保3年(1718)に造営された建物で、三間社流造、背面軒唐破風付、銅板葺、桁行5.43m、梁間5.15m、三重垂木、棟梁は熊谷出身の飯田和泉藤原金軌と飯田仙之助が担当しています。

幣殿は享保3年(1718)に造営された建物で、両下造、桟瓦葺、桁行三間、梁間一間。

拝殿は天保11年(1830)に造営された建物で、木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、正面千鳥破風、平入、桁行正面三間、背面五間、梁間三間、正面一間軒唐破風付。

箭弓稲荷神社の本殿、幣殿、拝殿は貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。

又、境内には関東随一と云われるボタン園が整備されており開花時期には多くの参拝者が訪れています。

箭弓稲荷神社(埼玉県東松山市箭弓町2丁目):動画

箭弓稲荷神社:付近地図

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