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瀧宮神社:由来・歴史・概要
・瀧宮神社が何時頃開創されたのかは判りませんが、伝承によると「太古当地に住み着いた先祖が、湧き出る水の恵みを称えて神として祀ったのが始まりである」と伝えられています。
瀧宮神社境内の南側からは古い住居跡や窯跡が発見された事からも上記の伝承を裏付けられています。
その後も、「瀧宮池(神池)」から湧き出る清水が周辺住民の飲料水や田畑の農業用水として利用されていた為、利用者からは神聖視され信仰の対象になったと思われます。
社号は当地から湧き出る清水が唐沢川の谷に流れ落ちる瀧のようだった事に因んで「瀧の宮」と呼ばれるようになったとも云われています。
康正2年(1456)に上杉房憲が深谷城を築いた際、境内が城から見ると南西方向に位置している事から裏鬼門の鎮守、守護神として篤く信仰しました。
又、築城の際には境内から湧き出る泉から城の堀に水を引き込んだ事から「城の固めと米の出来るは瀧宮様のお陰」と評されたと云われています。
戦国時代に重秀が瀧宮山正覚寺を開山すると、別当寺院として当社の祭祀を司っています。
天正18年(1590)に発生した小田原の役で当時の城主である上杉憲盛は北条方に与した事から北条家が敗北後は改易となり、当地を離れた事から一時外護者を失いました。
同年、徳川家康の関東移封に伴い当地には長沢松平家の松平康直が1万石で入封、康直も当社を崇敬したと思われます。
寛永4年(1627)に当時の城主である酒井忠勝が武蔵国川越に移封になると深谷藩は廃藩となり、寛永11年(1634)に深谷城は廃城となっています。
当社は再び外護者を失いましたが、城下町が中山道の宿場町である深谷宿として存続した事から、宿場町を構成する仲町・本町・西島の鎮守となり篤く奉斎されました。
一方、当地は天領(幕府直轄地)となった為、幕府の庇護を受け「秘書深谷根元録」によると「瀧宮大明神畠共に五反程除地」と記されています。
古くから神仏習合し「瀧宮大明神」や「大神宮瀧宮」 と呼ばれてきましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により瀧宮山正覚寺とは分離、改めて天照大神、豊受大神、彦火火出見命の三柱を勧請し社号を瀧宮神社に改めています。
瀧宮神社境内は風致に富み貴重な事から「埼玉の自然100選」と「深谷新八景」に選定されています。
拝殿は大正8年(1919)に改築された建物で、木造平屋建て、入母屋、本瓦葺き、平入、桁行3間、梁間2間、正面1間向拝付、外壁は真壁造り板張り、三方縁側高欄付、左右脇障子付。
額殿は昭和3年(1928)に造営された建物で、木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、桁行3間、梁間2間、外壁は四方吹き放し。
境内社の八坂神社は康正2年(1456)に深谷城の本丸に牛頭天王・弁財天・大黒天を勧請し開創されたと伝わる神社で、「三社天王」と号しましたが、寛永11年(1634)に深谷城が廃城になると天和元年(1681)に深谷宿の住民が相談の上、立町地先に遷座し、その後、紆余曲折を経て昭和27年(1952)に瀧宮神社の境内に遷座しています。
境内社の御嶽神社は康正2年(1456)に深谷城を築いた際、上杉房憲が家臣である秋元越中守の進言により城内の鎮守社として国常立尊を勧請して開創されたと伝わる神社で、明治38年(1905)に勅命により瀧宮神社の末社となり、昭和26年(1951)に瀧宮神社の境内に遷座し社殿が造営されています。
瀧宮神社(埼玉県深谷市西島5丁目):動画
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